その巨匠ヘルムート・ハンミヒの頭部管なんだが・・・
イイんだ、ほんとに。見たところは、なぁんにも変わったところがない。一時期流行った、絶壁リッププレートでもなければ、サイドのカットもほとんどない。でもね、いい音するんだよ。そして、何よりなのは、「吹き方を教えてくれる」んだ。つまり、吹き方が正しくなればなるだけ、いい音になってくれる。だから、正しい吹き方の方向が分かるし、その結果がすぐに音になって現れる。
この頭部管にフルートの吹き方を教わったと思っているし、あのヘルムートさんの工房や、温かい人柄、穏やかな表情を思い出すと、これ以上の楽器はないと思っている。たとえあったとしても、私には必要ない。ついでに言うと、胴体の方は、TAKUMIという、もう今では存在しないフルートだ。これも、ヤシマフルート・田中さんにじかに頼んで作ってもらった。これを、友人にして敬愛する田村フルート・田村氏にチューンアップしてもらっている。
これらの楽器を手に入れられたことによって、そして何よりもまず、楽器つくりに情熱を持っている人たちを知り得たことによって、私の音は存在し、命を持つことができる。だから、私はこの35年あまり、自分の楽器について1秒も悩んだことがない。いい音が出なかったら、全部自分のせい。これ以上の楽器があるなんて想像もつかない。これって、フルート吹きにとっては、最高の幸せだと思う。加齢によって、若い頃とはできることと、できないことが違ってくる。その違いも、ずっと1本の楽器を使っていれば、正確に把握することができる。加齢だけじゃない、見えないうちに、気が付かないうちに徐々に自分の肉体は、変化していっている。しかし、その変化が自分の出す音の変化になって感じられるのは、大抵ある日突然だ。それを楽器のせいにして、さんざん悩み、製作者に迷惑をかけ、莫大な時間を無駄にしてしまった奏者を私は何人か知っている。
こと楽器に関して、私がいかに幸運であったかをおわかりいただけると思う。今の時代では、どこそこのメーカーのフルートの、ナントカモデルで・・・しか判らないから、片っ端から吹いてみて、なんとなく気に入ったり、なんとなく妥協したりして、もっといい楽器、もっといい楽器は無いかって何時でも考えている。止むを得ないことかもしれないが、楽器はそれ自身、命も情熱も持っていると考えられたら、また新しい取り組みが生まれて来るのではないだろうか。
話が4日前に戻るが、フルトヴェングラーが「作品と直接に対決せよ」と語ったのは、楽器の場合と同じように、曲の背後に存在する作曲家の命と情熱に結びつけという意味ではないかと思う。そのことによって、曲に対するほんとうの敬意が生まれるから。
きょうはここまでだ。