続・ヘルムート・ハンミヒ氏のこと

フルートの内側に隠してもダメなので、頭部管のヘッドコルクをばらす。コルクを引き抜いてコルクの代わりに紙幣をぐるぐる巻いてやる。前後は金属板なので、ヘッドスクリューをとっても、その中のネジまで引き抜かなければばれない。(フルートの構造はここを見てくれ)巻ける紙幣には限りがあるが、西ドイツマルクには当時、500マルク札、1000マルク札というのがあって、大体5万円札、10万円札だ。だから、まぁ、やろうと思えば20~30万円は隠せるわけだ。高額紙幣は、世界的に廃止の流れになっている。高額紙幣を便利に使えるのは悪いことするときだけだからな。ユーロは500ユーロ札を廃止にするらしい、そのほとんどが地下からロシアに流れているという話だ。

で、だ。まず教えられた住所を頼りに、東ベルリンのハンミヒ巨匠の家を訪ねた。この時は、お金持っていかない。電話もしない。手紙も出さない。盗聴なんか当たり前の国だったから。でも、ほんとに貧しい国で、慎ましやかな生活をしていた巨匠だから、まず在宅しているという話だった。訪ねると、奥様が出てきて、今散歩に行っているから1時間後にまた来てくれという。こういった時間の流れが、今の時代にはあり得ないゆったりした人間味を感じるね。1時間後に尋ねると、ちゃんと巨匠が待っていてくれた。温厚で、優しそうな、どこにでもいそうなドイツのおじさんだった。工房といっても、3畳くらいの暗い部屋で、しかし、使い込んだらしい道具類はものすごくきれいに整頓されていた。日本人で、シュミッツ博士の生徒で、私のために頭部管を作って欲しいと言うと、二つ返事でOKしてくれた。金額は西の500マルクで良いと言ってくれた。そして、半年たったらまた訪ねて来いと。

貧乏学生だったので、500マルクの捻出には結構苦労した。日本人の音楽学生の面倒をよく見てくれた「京都」というレストランがあって、アルバイトさせてもらった。このレストランのご主人「しんちゃん」とママには本当にお世話になった。ありがとう。いつか機会があったらこのことを書くつもりだ。結局、再訪問できたのは8か月後になってしまった。もちろん、この間手紙も電話も無しだった。でもね、ヘルムートさんちゃんと取っておいてくれた。そして、引き取りが遅れたことを詫び、ほんの軽い気持ちで事情を話したら、50マルクのお釣りをくれたんだ。お前、学生だろって。この時、ほんとうにすまない事をしたと思った。だって、貧乏学生とはいえ当時の東ベルリンの状況からすれば、はるかに贅沢な暮らしをしていたのだから。

ヘルムートさんの工房の事を書いていたら、思い出した。ムラマツフルートの創始者、村松孝一氏にも会ったことがある。新宿・柏木に小さな工房があった。あそこも、小さな、「きれいとは言えない」家だったなぁ。(誰だか知らんが、新宿の地名も勝手に変えちまいやがってね、柏木という地名はもう無い。西新宿だってさ。)実は、名器は、特に楽器はものすごく小さな工房で作られていた、フルートだけじゃなくね。綺麗に飾られた楽器店のショウケースのなかで見る楽器は、輝いていて、ワクワクするものだけど、匠たちが真っ黒になって作ってるんだ。ブランド名や金額で楽器を見てしまうけど、その後ろに名匠の顔を思い浮かべてみよう。ヘルムートさんや村松さんの顔を知っているというのは、幸せだな、ジジイならではだろ。匠の顔を思い浮かべると、楽器の買い替えなんてそんなにできるもんじゃない。楽器で悩むのも、すごく申し訳ないような気がする。

きょうはここまでだ。