思い出話・・・あの頃のベルリンフィル(3)

あの夜、音楽は勝利した。あの空間の中で、最初に示された現実。それは、カラヤンの背中であった。そして、聴衆は我に返った。不確かな話の伝搬によって巻き起こされたブーも拍手も、その威厳ある小さな背中によって、一瞬のうちに葬り去られた。音楽とは、今まさに鳴り、そして瞬間に消えていくという圧倒的現実だ。そして閉ざされた演奏会という空間においては、たったひとつの現実でもある。それを眼前にして、自分がほんとうに見たこと以外を信じてはいけない、本当に聴こえてきたもの以外信じてはいけないと、皆が、そんな気持ちを共有しているようでもあった。

ザビーネ・マイヤーが問題になる数年前、オーボエの首席奏者、シュタインツの後釜にシェーレンベルガー決まったのだが、この時の彼をよく覚えている。定期演奏会に最初に彼が出演した時、何かもやもやとした違和感があった。浮いているというと言いすぎで、言葉に微妙な訛りがあるような感じか、いや違うなもっと微妙だな、何かちょっと色が違う感じだった。しかし、次の演奏会でその違和感が、全く無くなっていて、昔からフィルハーモニカーとしてそこに座っていたかのように、ベルリンフィルの音を堂々と演奏していた。印象的なんでもんじゃなく、「あそこに座る奴はやっぱり凄いな」と本当にびっくりした。で、ザビーネ・マイヤー嬢なんだが、この微妙な違和感が何回やっても無くならなかった。「なんか違う」んだな。ものすごく優秀な転校生、美人で性格も良く、頭が良くて人気者。だけど、手を上げるタイミングが皆より微妙に早い。そんな感じかな。いや、答えは正しいし、出しゃばろうとしているわけでもないんだが、スッと手が上がっちゃうんだよなぁ。いつまでたっても。だからといって、「君さぁ、もう少し手を上げるの遅くしてくれない?、0.2秒くらい」 って言えないだろ? それが全てと、私は思っている。

あれから30年以上が経った。もし今の時代だったら、カラヤンだってあんな叩かれ方では済まないだろうな。恐らく舞台袖に立つ前に、あらゆる媒体で、あらゆる方法で攻撃を受けるだろう。そして何よりも聴衆に、その時、我に返るだけの理性が残っているのかどうか。

今、世界中の色々な記者会見を見る。日本では、謝罪会見という妙ちきりんな儀式もある。ほんとうに被害を与えてしまった人にではなく、マスコミという権力者に頭を下げさせられるのだから、見ていて吐き気がする。怖いのは、我に返る理性を無くしているその権力者たちだよ。示された現実に気づくことができず、いつまでもブーも拍手も止めないチンピラがいちばん怖い。音楽が、リアルを捨てちゃいけないというのは、そいつらと戦わねばならないからだ。

きょうはここまでだ。