昨日は「上がる」を「緊張して集中できない」と置き換えて、対処の方法を書いた。きょうは、その前段、「緊張する」ということについて考えてみたい。まず、緊張した時の結果は、緊張しなかった時の結果よりも常に悪いのだろうか。そんなことはないよな。それを知っていて、なぜそれでも緊張しないで演奏することを望むのか? 不可解だよな。そこで、きょうは「緊張ぐらいしようよ」って話だ。それでも、緊張のあまり、足がや唇や指が震えたり、テンポや音程が分からなくなったり、呼吸が浅くなってしまったらどうしようと、不安は尽きないよな。わたしゃ、何十年もフルートを吹いているがね、未だにそんな不安から解放されて、本番を「楽しく」やったなんて経験は無いな。凄い上がるんだよ、いっつも。本番前に、気がつくと、今逃げ出したらどうなるんだろ、ってマジに考えてることがあるくらい、私は上がる。自慢したいくらい上がる。
だが経験を積んで、今では、こんな風に考えることにしている。
演奏を聴きに来る人々は、「音楽から何らかの示唆を得られる」ことを期待して、わざわざ、貴重な時間を使おうとしている。一生に一度のかけがいのない時間を、そこで費やそうとしている。それに答えようとするなら、緊張して当ったり前、たとえ聴衆が一人でも、当たり前じゃないだろうか。でも、ここで重要なのは、「音楽からの示唆」であって、「私からの示唆」ではないということだ。それは教会の礼拝のようなもんだ。会衆は、司祭を拝みに来たのではなく、その向こうのキリストを拝みに来たのだ。そう思えば、聴衆の目や耳の圧力を全部「自分」で受け止める必要はない。その圧力は自分の体を通して、後ろのモーツァルト(例えばだ)に引き受けてもらえば良い。そう考えることで、ほんとに楽になったぞ。数日前に良い音楽とは、「そこから暖かい風が吹いてくること」と書いた。(1月2日)モーツァルトから流れてくるその暖かい風を、そのまま客席まで届ければいいのだと。
もっと大げさに言う、音楽は人を助け、勇気づける力を持っている。今、川に溺れている子供がいるとしよう。あなたは飛び込む。今、何を着ているかなんて考えない。泳ぎが上手いかなんて考えない。何泳ぎで泳ぐかなんて考えない。見物人が集まって来たから、かこよく泳いで見せようなんて、もちろん考えない。リラックスしようなんて考えない・・・貴方から吹いてくる暖かい風が、いま、誰かの助けになるとしたら、暖かい風のことを考えるだけでもう精一杯じゃないか。
今一度、私たちが「上がる」ことによって何を恐れているのかを考えてみよう。
せっかく練習したのに成果を披露できない。期待を裏切りたくない。うまく吹けなかったら恥ずかしい。笑われたくない。恥をかきたくない。自分が一番下手だったら恥ずかしい・・・なんだか貧しい話だな。 もしかするとそんな貧しさを知られることを恐れているのかもしれない。「フルートは腕自慢の道具ではない」って書いたけど、(1月1日)本番で出てくるよ。恐怖となって自分の身に降りかかってくる。
私はまだ初心者でそんなレヴェルじゃないって、思っていたら、それは違うと思うぞ。選ばれて、フルートを手にした瞬間から、暖かい風を吹かせる力も、使命も持たされていると思って欲しいんだ。今日なのか、明日になるのか、きっと、みんながその風を待っている。
音楽、上手い、下手じゃない。
明日は、上がらないためのもう一つの具体策を書くよ。
今日はここまでだ。