もっと熱く!

 たとえば車の運転で、フロントガラスが液晶で出来ていて、外の外の様子が綺麗に映し出されているとする。そんなクルマ運転できるか?たとえその液晶が外界を遮るもの無く映し出し、肉眼で見るよりも視野は広く、さらにAIが危険な動きを察知して、画面に警告の表示を出すような仕掛けが施されててあったりする。そんなクルマ運転できるか?俺は怖くて絶対できない。運転するという状況のもとでは、現実は己の目で認識した時に初めて意味を持つ。自分の目に映るものよりも、信頼のおけるものなんて無い。実験してみたら面白いだろな。こういう車作って、その液晶画面がどれだけ素晴らしい働きをするか、どれだけ安全かをこんこんと説明して、運転させたらいい。そして、わざと車に何かが当たったような衝撃を与えてやるんだ。その時、人はどんな反応をするのだろうか。どんな行動を取り、どんな精神状態になるのか。「安全なはずだから」と、平気でそのまま運転を続けられる人間はいったいどのくらいいるのだろうか。おそらく多くの人間は、その瞬間、自分の所属していた世界と、現実が違っていた事に大きな衝撃を受けるはずだ。普通の車の事故どころでは無いショックが襲い、そんな車を己の目よりも信頼してしまった自分を、そんな車を運転してしまった自分を悔いるだろう。
 でも、私はこんな光景が日常茶飯事に行われている世界を知っている。己の耳をチューナーに委ね、それを現実として勘違いし、どんなに大きな衝撃を受けたとしても、一向に意に介さずさに、運転を続ける人々が居る事を私は知っている。その人々は、ぶつかっていると言っても見ようとしない、あなたの車の横にひとが横たわって居ると言っても信じない。血が流れていても認めようとしない。その人々が信じるのは、ただ、計器の指し示す針の動きだけだ。そんな世界で、どうやってフルートを吹けというのか。何のために音楽をしろというのか。何に魂を捧げよというのか!

 私は時々、ネット界隈を散策する。皆がいったいどんな事に関心があるのか、何を知りたがって居るのか、何を必要として居るのかを知るために歩き回る。闇だ。あまりにもひどい闇だ。嘘と出鱈目と無責任の泥沼が拡がっている。なぜ誰も言わぬのか。己の耳に従えと。己の心に従えと。確信を持って計器に従う者と、震えながら己の心に従う者と、音楽に必要なのはどちらなのか。生きている意味があるのはどちらなのか。美しい音を奏でるための方法を学ばねばならない、正しく時を刻む術も学ばなければならない。しかし、何よりも学ばなければならないのは、従うに足る耳を持つこと、従う価値のある心を持つ事ではないのか。もっと、もっと熱く!

今日はここまでだ。

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