フルートの吹き方 癖(1)

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仮に、誰もが認める大奏者に、何らかの癖を見つけ出したとしよう。で、それを真似すれば、その奏者のように吹けるようになるとはだれも考えないだろう。しかし、かっこだけ真似て、脳内で大奏者になって、うっとり吹いてみるのも、楽しいに違いない。恰好を真似る為の観察も、フルートをうっとり吹きたいと思う心も、どちらもフルートに対して積極的でなければならず、それは貴重で大切なものだ。

「癖を直せ!」と、言うのはものすごく簡単だ。医者が患者に「安静にして、規則正しい生活を・・・」と言うくらい簡単だ。ついでに言うと「頑張りましょう」「練習しましょう」「落ち着いて吹きましょう」も簡単だ。「正しい姿勢で」も簡単だし、「力を入れないで」も簡単。ずっとお読みいただいている方にはお解りいただけると思うが、「どうすれば頑張れるのか」「どうすれば練習したくなるのか」「どうすれば落ち着けるのか」「どうすれば・・・・できるのか」を書いてきたつもりだ。だから、「どうしたら癖を直せるのか」を書かねばならない・・・厄介だなぁ。

どうして厄介なのかというと、「癖」と「個性」の境界は、結果によってしか判断できない。そして、結果とは何か。大奏者としての評価を得るまでになれば、それを個性と評価して良いのか。でもな、癖のある奏法の大奏者は歳を取るとボロボロになるぞ。フルートだけじゃない、他の楽器でもそうだ。大奏者だから、あえて名前を挙げないけど。人は老いる。若い頃と、同じ顔をしたまま歳は取れない。大女優以外は。?。顔や、唇の状態が日々変化していくなかで、癖のある奏法をいつまで維持できるのか。やはり、合理的な奏法がいいんじゃないか?60になっても、70になっても、80になっても活き活きとした音でフルートを吹きたくないか?

しかし、こういうこともある。例えばテニス。40年前と今とでは全く違うテニスをやっている。バックの両手打ちなんか殆どいなかったし、えげつなく回転するボールも今日ほど打たれることはなかったと思う。でも、明らかに先駆者がいて、新しいテニスを創り、発展させてきた。「美しいテニス」が価値としてあった時代に、両手打ちなんかみっともなく見えた。フルートにおいても、今は単なる「癖」にしか見えない事が、「先駆的役割」につながるかもしれないのだ。

癖を直すのは苦しい。同じパッセージを何十回も繰り返すなんて、癖を治すことに比べりゃ楽なもんだ。ちゃんと言おうか。直さなければならないと自覚している癖から目をそらして、ガンガン練習しては、いかんよ。勇気だ。信念があるなら、貫いた方がいいい、誰が何と言おうとも。だが、「まずい」と思ったら、すぐに直したほうがいい。分かってる! 誰でも。物凄い勇気がいるんだ。根気と忍耐を支えるのは勇気だ。良い先生は、きっとそれを支えてくれる筈だ。

わが師ハンス・ペーター・シュミッツ博士は生徒の前で一切フルートを吹かなかった。薄い鞄ひとつだけ持って、レッスンにやってきた。30代で現役を引退していて、生徒の間でも、果たして自宅で吹いているのかさえ知るものはいなかった。「生徒は、まず先生の一番悪いところを真似をする」から、らしい。このブログの最初の方で、「私たちは誰も聴いたことがないような美しい音」で吹くことが目標であり、誰もがそれを実現することが可能と書いた。 (2016年12月26日)その意味で、博士には多いに大いに感謝している。すべてを、考えさせてくれたからである。

きょうはここまでだ。