キリスト教について知っておこう・・・(4)

長らく更新をしていなかったが、死んだわけじゃないぞ、きょうから再開する。
相も変わらず、暇だったんだが、音楽とキリスト教の関係について書いているうちに、ちょっと考えることがあってね。それで、ずっと考えていたわけ。

実は、こんなことを書こうとしていた。
---例えばミサ曲を演奏する場合、そのラテン語のテキスト訳を学ぶよりも、礼拝そのものの構成、そして礼拝の中での各曲の役割と意味を知っていた方がはるかに役立つ---これは確かだ。
しかし、それでいいんか?っていわれると、なんだかねぇ。
つまり、キリスト教の側から考えれば、ミサは信仰の中心に位置する儀式であって、信仰無しに、知識のみによって参加しようとしても意味は無いと主張できるだろうし、他方、音楽の側からすれば、音楽にとってのリアリティを追求するなら、本物の信仰も必要になるだろう。まあ、あくまでもミサ曲、あるいはこれに類するキリスト教音楽についての話だが。

この疑問は、「音楽は奏者の共感によって正しく解釈される」という前提に立っている。だから、何も教会音楽に限らず、他の音楽にも通じて、明らかにしておくべきことが、なんかモソモソとあるんじゃないかと。このことを考えると、いつも思い出すエピソードがある。チェロの友人の話だが。

「マタイ受難曲を弾くと、その時だけ、『ああ、キリスト教徒になってもいいかな』って思う。」

この感想には、深い意味があると思う。きっと、そう思う時の彼の演奏は素晴らしいものだろうし、その演奏はキリスト教的にも完全に正しいものだろう。他方、共感や解釈は、必ずしも演奏に先立っている必要はないという事も明らかにされている。これは、演奏家が、演奏の瞬間に、音楽に対して、聴衆に対して、どのような精神的立場を取り得るのかという問題に示唆を与えている。

話は飛ぶが、イスラム教の音楽って知ってるか?
答えは「無い」だ。
彼らの考え方では、「音楽は酒や麻薬のように人の心を酔わせて、理性的な働きを麻痺させる。」らしい。
これはこれで、音楽の本質を見ているようだし、はっきりしていてよろしい。しかし、そのせいで、音楽は発展しなかったんだな、あっちの方では。人間て何なんだろうねぇ。まじめ過ぎると、進歩しないんだわ。俺みたいな人間も社会には必要って事か・・・。

で、音楽が先か、教会が先か、どっちが上かなんて話をしても始まらんと思うんで、こんな話はどうだろう。
前にもどっかで書いたんだが、ネアンデルタール人の笛の話。

20年程前に、スロベニアの洞窟で、ネアンデルタール人のものとされる、指孔のある骨製の笛が見つかった。でもねぇ、ネアンデルタール人って、言葉をもっていなかった。話せなかったのよ、骨格的に声、出せなかったらしい。そこで、その笛で、何やってたの?って話だ。この話、実は最後に「落ち」があるんだが、この頃の話って、専門学者を含めて、想像自由の世界だからね。だって、骨と一緒に多くの花粉が発見された・・・だから、死者は丁寧に花を添えられて埋葬されていた。こんなんで、ちゃんとした学説だから。だから、我々も、フルート吹きとして、精一杯想像力を働かせてみようじゃないの。(続く)

きょうはここまでだ。