マエストロはつまり、ドイチェ・グラモフォンと結託して、いや協力して沢山レコーディングしたわけね。そりゃぁレコード売れれば、みんなが楽して儲かる。だから、そのレコードの宣伝のために、イメージ戦略も必要だった。実際それは成功した。その成功は、ベルリンフィルひとつに留まらずに、クラシック音楽に人々の注意を惹きつけたのだから、決して悪くは言えない。だが、録音され、大量販売される音楽の成功と、演奏会での音楽の成功とでは、価値も、目指す方向も全く違う。
演奏会ではあり得ないほどの弦楽器パートの人数を動員し、(管楽器もだ)、音の厚みを増し、気に入らないところは採り直し、継ぎ合わせる。何回聴いても、いや、何回聴かれても欠点は見当たらない。オーディオルームで正座して聴こうが、風呂に浸かりながら聴こうが、電車の中で聴こうが、流れてくる音楽はいつも同じだ。何なんだろ。しかし、そうはいっても、私だって思わず手を止めなければならないほど、ステレオ(死語だな)から流れてくる音楽に、耳を引っ張られた経験は沢山ある。聞かないわけじゃないからね。でもね、その殆ど全部が「歴史的録音」ってやつなんだわ。ライブ録音だったり、当時まだ録音自体「キワモノ」だったころのものだ。
じゃ、あのカラヤンとベルリンフィルの「演奏会」はどうだったか。ええ、素晴らしかったですよ。だって、ソリストたちが普通じゃないもの。当時、ソロフルートはツェラーとブラウで、若いブラウの方が安定していた。ツェラーは大抵、不調だったけど年に数回は神がかった音を聴かせてくれた。オーボエのコッホの艶やかな演奏も魅力的だった。下から上への跳躍で、必ずディミヌエンドがかかるんだけど、その艶っぽさは殆どエロティックだった。クラリネットのライスター、ソロが終わるとドヤ顔の代わりに、左手をすうっと楽器から離す仕草が、なんとも悔しい魅力だった。ライスターは学生時代、ホッホシューレに泊まり込んで練習していたらしい。我々の時代には禁止されていたけど。ホルンのザイフェルトは大ソロの前に、周りの奏者に因縁付けながら、つば抜きをせわしなくやってて、それで、完璧に吹いた。チャイコフスキーの5番、涙が出たぜ。ベルリンフィルの本拠地、「フィルハーモニー」はカラヤンサーカスと呼ばれていたけれど、内容もそういったサーカス的なソリに支えられていたと私は思っている。
しかしこれは、ある意味で当時のベルリンの価値観だったのではないだろうか。東西に分断されたドイツの東側、その中の都市ベルリンがさらに東西に壁で隔てられていた。西ベルリンは、赤い海に浮かぶ資本主義の孤島だった。ベルリンというのは戦後から、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の共同統治で、そのうち東ベルリンをソ連が統治し、西ベルリンを他の3か国が統治していた。だから、西ベルリンの空港には、パンアメリカン、ブリティッシュエアウェイ、エアーフランスしか飛んでいなかった。ルフトハンザは飛べなかった。そして、賃金には8パーセントのベルリン手当が支給されていたし、当時ドイツにはまだあった徴兵も無かった。そこまでして、あの小さな壁に囲まれた空間を、繁栄する西側のこれ見よがしのショールームに仕立て上げていた。ドイツ的落着きよりも派手好きで、どこか刹那的なベルリンの様子は、きっとベルリンフィルの中にも生きていたのだろう。各ソリストの演奏は、見事の一言に尽きる。しかし、曲全体が何を語り得たかと問えば、あまり成功したとは言えなかったのではないか。東側のオーケストラの演奏の方が、派手さこそないものの、しっとりと胸に迫るものがあったと。ブロムシュテットとドレスデン歌劇場オーケストラ(Sächsische Staatskapelle Dresden)なんか、帰りに胸の中にあったかーい物を残してくれた。(続く)
きょうはここまでだ。