フルートの吹き方 装飾(10)

音楽が、それを聴く人に巻き起こす感情について、古くから多くの考察や議論が行われてきた。これほどまでに自然科学の発達した現代においても、「音楽」が解明されることはない。「音楽」への理解を助けるためにあらゆる「たとえ」を駆使しても、音楽そのものが示す一瞬の説得力を超えることはできない。我が師ハンス・ペーター・シュミッツ博士はその著書の中で、ショーペンハウアーを引いた。「音楽だけが意志そのものの模写である」と。そして、音楽に特別の地位を与え、それが私達に巻き起こす現象についてこう表現した・・・「あらゆる人間の生の精神物理学的根源の暗闇に休息しているこの核・・・」

この暗闇を覗こうとする努力は、音楽家の興味を超えて、古代ギリシャから多くの哲学者によって為されてきた。ショーペンハウアーだけではなく、マックス・ウェーバーも音楽に対して、社会学的アプローチを試みた。こういったヨーロッパ精神による「音楽」に対する分析の試みによって、音楽の伝統の中に、日本人の想像をはるかに超えた厚みが存在する。シュミッツ博士の博士号は哲学博士で、代表的な著書は「演奏の原理」だ。彼は、途方もないこの暗闇を、演奏を原理化しようとする精神によって照らそうとした。甚だ不出来であった私ではあるけれど、師のその情熱を今も背後に感じることができる。

さて、話をフルートに戻そうか。私たちの精神の欲求も、「確かなもの」と「意外なもの」の間で揺れ動く。「意外なもの」を受け入れる喜びは、「確かなもの」を確認する安心感よりも大きい。その差こそが、私たちを新しくしてきたからだ。で、きょうは「意外な音」の処理だ。「意外なもの」は、「受け入れられる形」を伴って初めて価値を持つ。旋律でも和声でも、意外な進行の際には「受け入れられる」形に演奏されなければならない。しかし、充分すぎる予備を持って演奏すれば意外性は低くなるし、その逆であれば受け入れられないだろう。ここに、センス、個性が出てくる。「音楽性」という言葉は嫌いだが、もし使うとすれば、こういった場面だろう。例を挙げる。最初がヘンデルのフルートと通奏低音のためのソナタ・ホ短調・第2楽章(G.F.Händel-Sonate e moll)、次がJ.S.バッハ・フルートと通奏低音のためのソナタ・ホ短調・第2楽章(J.S.Bach-Sonate e moll B.W.V.1034)から採った。

この背景を赤にした部分のF(ファ)の音は意外な音だ。このふたつは「ナポリの6度」という進行で、短調の主音の短2度(半音)上に成立する長3和音だ。(バスにはその第3音を持ってくるのが普通)こういった旋律を吹くときには、意外性を持つ音に十分なアクセントを付けるだけではなく、その直前の音にも十分に配慮しなければならない。「ちょっと注意して! びっくりしないでね! 音間違えたんじゃないからね!」って、吹くんだよ。その必死の思いが「音楽性」だな。

これもちょっと意外な進行、変終止だ。ヘンデルがバスを休止符にしているのが憎いね。美味しいところはフルートに、だ。(ヘンデル・ソナタ・ハ長調・第3楽章から)

昔、指がムチャクチャ回るだけの後輩がいた。そいつが、俺の演奏を聴いて「楽章間の緊張が素晴らしい」って言いやがった。血気盛んだった俺が、そいつの首絞めなかったのが不思議だ。受け入れられてこその意外性であって、受け入れられない意外性を「変態」と言う。

変なこと思い出したんで、きょうは変終止だ。

きょうはここまでだ。