前にも述べたように、音楽はふたつの相対する要素の間を、振り子のように運動する存在だ。本番の項目で、集中力のコントロールを考えたように、和声も緊張と弛緩とを繰り返す。緊張とは不協和音であり、弛緩とは和声的に解決された協和音のことだ。そして、この不協和音こそ、音楽の魅力の最大の功労者だ。さらに、和声的には協和音の中にあっても、様々な一瞬の不協和、刺激は旋律の魅力を増すだろう。音楽をするにあたって、この一瞬の不協和をいかに敏感に感じられるかというのは、とても重要なことだ。「不協和」という単語には、「不快」であるとか、「異質」であるとかのイメージが付きまとう。しかし、これを「刺激」であり「出会い」であり「進歩」であると捉えるなら、より身近な存在として感じられる。あるいは、不協和は「現実」であり、「協和」は理想であるかもしれない。
このような考えを元にすれば、「トリルは上からか下からか」などという些細な問題には、容易に答えが出る。「不協和音から始めよ」が答えだ。(厳密にはバスに対して不協和)「バロック時代は上から」なんて書き込みを見たことがあるが、「馬鹿はよせ!」と言いたい。答えは簡単だが、実際には工夫が必要になるだろう。先行音が3度上なら、間を埋める形で2度上から始めるのは簡単だ。しかし、先行音がトリルを始める音と同度だったらどうするのか。先行音が、2度下だったら、3度下だったらどうするのか。これらの場合、工夫が必要だし、解決法もひとつではない。改めて、譜例を示して書くつもりだが、これとて便利な字引のような働きはしないだろう。最後は耳とセンスだ。「一瞬の不協和をいかに敏感に感じられるか」という事だ。
クレシェンド、ディミヌエンドについて考えてみよう。このふたつは、対立する概念だが、しかし刺激という意味では同じだ。しばしば、クレシェンドは強い表現として意識されるが、ディミヌエンドは単に減衰する音として処理されやすい。でもディミヌエンドも強い緊張として表現されることもあるはずだ。恋人と出会うのも感動的だが、恋人に去られるのも感動的だ。たまったもんじゃ無いがね。あるフレーズのディミヌエンドを、あたかも去っていく恋人を目で追うように吹いてみよう。そんな気持ちで吹いたら、きっと最後はどんな小さな音になっても、まだ吹き続けたいだろう、見えなくなっても、それでも何らかの音を出し続ける・・・
曲の終わりの長い音、ビブラートをどうするのか。自分の死を、安らかに息を引き取るように終えようと思うなら、そう簡単にビブラートをゼロにはできないだろう。永遠の別れだ。このような状況では、最後の音が消え去る時こそ、緊張の最高点だ。曲が終わって、初めて弛緩が訪れる。
なぜこれほどまでに、装飾について、しつこいまでにその概念について書くかというと、それは「装飾は指示されて付けるものではなく、最終的には自分でつけるもの」だからだ。記号に従って、決まりに従って付けるものでは無く、「止むに止まれぬ」感情によって付けるものだ。そのことに慣れなければならない。バロック音楽において、奏者による装飾は必須だ。それは、作曲家の我々に対する敬意であり、未来への期待に他ならない。
きょうはここまでだ。