本番で音を間違えるのって、嫌だよな。何をいまさらって言われるかもしれないが、間違いって、音だけじゃない。でも、他の間違いはバレないから、ま、いいや。って、もし、考えるなら、それは演奏自体が間違っている、と言うしかない。音なんか、間違えるよ、人間がやってんだから。それがそんなに重大な事なら、機械に任せりゃいいのよ。打ち込みでいくらでも、「それっぽい」のはできるんだから、今の時代。CDなんか継ぎ接ぎでいくらでも訂正したものを作成できる。俺のパソコンでだって、全くわからないくらいに継ぎ接ぎできる。でも、そんな事、何百年も我々は理想としてきたのか? 明らかに違うよな。我々は、人間でしかできない事を追求してきた、いまさら、私が言うまでもないが。
ひとつの音の間違いで、演奏自体が台無しになってしまうことは絶対に無い。だが、登場したとたんに、台無しな演奏はある。聴衆を馬鹿にしないほうがいいい。聴衆は常に自分が思っているよりも暖かく、しかし遥かに厳しいものだ。これは、実はオーケストラと指揮者との関係にも存在する。新しい指揮者が来たとき、最初の棒が振られる前に、殆ど関係は出来上がる。敏感で神経質になっているオケマンにはわかるんだ、その指揮者が何を考えているかが。人々が、「この人の言うことに耳を傾けよう」という気持ちになるかどうかは、話し始める前に、棒が振られる前に、演奏が始まる前にほとんど決まっている。それが、そのまま最終判断に結びつくわけではないけれど、スタートのその差はものすごく大きい。重いはずみ車の回転を止めて、逆に回し始めるには、大変なエネルギーを必要とするだろう。余談だが、そういった思いで政治家の顔を思い浮かべるといい。そんなに居ないだろ? 政治家って、それが命のはずなのにな。
演奏途中で、間違いをやらかし、「うっ!やっちまった」と考えているときに、聴衆は、「とっくに聴いていない」か、「うん、うん、それで次を聴かせて!」って考えているか、どっちかだよ。彼女に、「好きだ!」って言おうとして、噛んじゃった時に、彼女は「困るぅ~」と思っているか「嬉しい!」と思っているかどっちかで、「あ、この人噛んだ!」って考えているようなのとは、付き合わんほうがよろしい。だから、試験でも、オーディションでも、コンクールでも、ひとつの間違いが何らかの減点に繋がるとすれば、そんなもの長い音楽人生の中でたいした価値は無いと思おう。そんな審査員や試験官が居るような所とは、「付き合ってもほどほどに」だ。
演奏会で、私は、間違えるよ。いつも間違える。でも、幸いにも、それで命を奪われた事は無いし、いまだにフルート奏者を名乗ってる。フルートでやりたいことが、まだまだあるからな。
きょうはここまでだ。