フルートに関するどんなサイトを見ても、そのほとんどが、「どう吹くのか」という方法論ばかりで、正直がっかりする事が多い。あまりに、即物的ではないか!多くのフルート愛好家、音楽愛好家、職業人としての音楽家たちをも含めて、なぜ、「何を吹くのか」について、もっと多くの興味を持ち、持論を展開していないのか、不思議であり、残念でもある。それともそんなことは、もう解りきったことなのだろうか?とてもそのようには見えない。偉大な音楽の歴史、音楽のもつ力の頂に少しでも近付こうとするなら、まして、そこに私たちの命をもってかかわろうとするなら、「どう吹くか」なんて、麓をうろついている見物人の、無責任な戯言にしか聞こえないだろう。未だ、装備は充分でないかもしれないが、いまその山道に一歩を踏み出さないで、いったいいつになったら登り始めるのか。
奏法など、語られた瞬間に行く先は見えてしまっている。そこに行きつけば、その先は無い。私たちは、フルートで何を吹こうとしているのか、フルートで何を語ろうとしているのか?
その思索と試行の中にただ一歩、踏み出せば、本当は、奏法なんぞ無限に湧いてくるに違いないのだ。奏法とは、何を語るためにという目的と意思とによって導かれてこそ、初めて意味を成す。語り得なかったことが、新たな方法によって語られるようになることこそが、私たちの進歩であり、喜びであり、価値であるからだ。
このブログも、タイトルこそ「フルートの吹き方」にしたけれど、それはお察しの通りの事情からだ。だから、そのスタートもあえて「息のエネルギーを最大の効率で音に変える」という、おそらくだれも抵抗できないであろう、即物的な命題に置いた。しかし、その実践を紹介する過程では、私たちの命の事や、音楽の事や、精神のことに少なからず触れざるを得なかった。そして、導き得た結論は「何もしない(で吹く)」だ。でも、考えてほしい、「何もしない」事によって、私たちはどれだけ、正直に、自由になれるかを。その時こそ、この一本のフルートで「何を吹くのか」、に想いを巡らすことができるのではないか?
もしかすると、私ほどレッスンで奏法にこだわる人間は居ないのかもしれないと思う。しかし、それは一刻も早く「吹く」という呪縛から自由になってほしいからであり、自由な貴方の命の声を誰よりも早く、誰よりも熱意をもって聴きたがっているからだと、言い訳をしておく。
次回は、持ち方について考えてみようと思う。
きょうはここまでだ。