正しい演奏をしようとするな

 前回述べたように、多くの人が「基準」を求めて円盤世界や(非円盤主義参照)ネットの闇を徘徊している。それは「正しい演奏」をしたいという欲求から生まれるものなのだろう。おいらは悪魔でなないので、「正しく生きたい」と願う人々をけなしたりしない。退屈そうに見えてもね(冗談だよ)。ただ音楽の場合、瞬間、瞬間に正しい選択を積み上げていったとして、それが最終的に素晴らしく立派な音楽たり得るかというと、どうだろう、限りなく退屈な音楽になってしまうのではないか・・と主張しているわけよ。
 で、正しいとは何かっていう事なんだが、ここではすっごく狭い世界、計測可能な音楽の要素の話だ。みんな大好き、メトロノームとチューナーの世界だ。そして、正しいテンポとは、指定のない限りだんだん遅くも、だんだん早くもならずに一定のテンポを刻むことであり、正しい音程とは、平均律であれ、純正率であれ計算可能な音程に狂いなく合った音を出すことを指す。この二つの要素は、音楽を構成する重要な要素として挙げたわけではない。ただ単に、本当にただ単に、「計測可能で、機械によってコントロールできる」から挙げたに過ぎない。メトロノームとチューナーを助さん格さんのように左右に従えると、なんとなく最強フルーティストを養成できそうだが、なに、一番偉いのは「印籠」だから。
 冗談はさておき、テンポについては、実際の演奏においてある程度の自由が認められるのは知られたところだろう。その基本は我々の生きている証、「鼓動」にあって、興奮すればだんだん速くなるし、気分が落ち着けば緩やかになる。それは我々の感情の動きに近く認知できるので、コントロールはそれほど難しいことではない。要は、自分の意志とは無関係にテンポが遅くなったり速くなったりすることが避けられれば良いわけだ。練習の過程において、メトロノームは役に立つだろう。ペースメーカーとしてだけではなく、時には反面教師として。
 厄介なのは、本当に厄介なのは「音程」の世界だ。計算が可能で計測できるから、チューナーの針は「正しい」「正しくない」を示してしまう。「正しく生きたい」と願う人々にとってはこれは苦痛だろう。妥協できたとしても、「本当はチューナーが正しい」んだが「これくらいなら許される」みたいな負の妥協が成立してしまうなら悲しいことだ。音楽の中において、音程という問題がいかに複雑で、いかにいい加減で、いかに自由かという事を、これから何回かに分けて書いていこうと思う。当たり前の話だが、「音程」は聴く、あるいは感じることが重要であって、その行為、経験なくして判断し、選択し、自信をもって歌いきることはできない。理論と計測から脱しなければならない。
 フルートアンサンブルかなんかで見かけた光景なんだが、みんな譜面台の上にチューナー乗っけて自分のチューナーに合わせてんのよ。いや、合わせるというより、チューナー様のご意見を聞いているの。それで、ピタッと全員のAが442に合ったとして・・・えっ!? アンサンブルやるんでしょう? きっとどこかでAさんとBさんの音程がぶつかったとして、解決方法は「チューナー様のご意見に従う」んだろうな。喧嘩にはならずに済むかもしれないが、仲良くもなれんだろうな。

 嫌味なジジイだな。きょうはここまでだ。今から鳥を焼く。
明日から、「音階論」だ。

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