他人の演奏を聴くな!
なんで、みんなYouTubeなんか見るんだろう。
新しい曲を始めようかと言う時、真っ先にYouTubeで探す人集まってください。レッスンで新しい曲を先生に紹介されて、真っ先にそれをYouTubeで聴いてしまった人来てください。今やっているエチュードがどんなテンポで吹くべきなのか知りたくて、YouTubeで探した人そこに座ってください。
なんだよ、ほとんど居るぢゃねぇか!
オイラのレッスンでそれやると、首が飛ぶよ。(嘘だよ、ちょっとだけ優しく睨まれるだけだよ)
ちょっとくらいいいじゃない!って言うけど、どうして「スタンダード=基準」を知らなくちゃならないの?『スタンダード」って何なの?YouTubeにあるのが「スタンダード」なの?
まぁ、「我こそは」という人たちがUpしてるんだろうけど、その数が増えれば増えるだけ、それを見る人が増えれば増えるだけ、より「スタンダード」の姿が明らかになってくる。より、強固な基準、標準が意識されるようになるだろう。もうわかるよね、そのstandardってもっと訳語を発展させれば、普通・一般的・平均的・平凡・並み・当たり前・在り来り・世間並み・十人並み・・・・つまり、「退屈の極致!!!」。
つまり、そういったメディアには我々の目指すべきものとは正反対のものが出来上がっていく。多くの人々の、それぞれの良い所を真似して繋ぎ合わせたら、最高の作品になる・・・なんて、思っていないよね? ん? この発想AIそのものじゃん。もしそれでいいなら、もう誰もフルートを演奏する必要がない。だいたい、AIってのは「やりたくない」「めんどくさい」「自分じゃできない」から使うんであって、「フルートを吹きたい」「音楽をしたい」「自分の世界を表現したい」と少しでも思うなら、我々のなすべき仕事は、「データ収集」とは真逆の行為でなければならない。だから、くどいけどもう一度言う。「他人の演奏を聴くな」だ。そこにある、一枚の楽譜を見るんだ。記号化された楽譜というカスカスのメモから、己の力で血肉を与え、立体化させ、現実化させるんだ。もしわからなかったら、その作曲家や、時代背景なんかを調べるくらいはいいだろう。それにはNETは便利だ。おいらは、図書館に通ったがね。しかし、それとても無理にやる必要はない。なぜなら、作曲家はその作品を楽譜として発表したその瞬間から、どう演奏されるかに口をはさむ権利を持っていない。それは巣立った子供であって、作曲家と演奏家が、口うるさいお母さんと子供の関係を続けるのははなはだ不健全だ。
ついでに脱線するが、演奏家だって音に出した瞬間から一切の説明や弁明する権利を持っていない。聴衆にとって、その演奏家が「どんなに苦労したか、どんなに苦難の道を歩んだ来たか」なんて「知ったこっちゃない」のだ。もし、聴衆が「演奏家の生きざま」なんてものに興味を持っていたら、それは「音楽を聴いていない」証拠だ。
楽譜の曲頭にテンポが指定してあったりする。大抵それは速い。早すぎることが多い。しかし、YouTubeに上げれれば、そのテンポより遅く演奏したものはテンポの数字を下回ると言うだけで「批判」の対象となるだろう。あるいは、「どうだ!俺様は指定のテンポで吹けるんだぞ!」というだけの自慢でUpする輩もいるだろう。
それがスタンダードになった時、どんなにそれが神業を要求されるような演奏であっても、それは「退屈」。かつて、テレビに映らないものは現実には存在しないと言う錯覚が人々を支配していたように、いまやネットで、YouTubeで発見できないものは、YouTubeで語られていないものは、存在しないか、よほどの異端扱いだ。
とにかく、日に日にデータが蓄積されていく。日に日に究極の退屈に向けてまっしぐらに時代が進んでいく。
今日はここまでだ。明日のお題は「正しい演奏をしようとするな」だ。あぁ退屈。
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