ネアンデルタールの笛・・・(2)

「自然」という脅威に対して、人間以外の動物が取り得る態度は「服従」だ。服従とは理不尽なものだ。いっさいの不幸は突然、理由もなくやってくる。人間以外と書いたのは、人間の成功は、まさにこの一方的な服従と向き合ったことにある、と思うね。恐怖の出所を意識したんだ。それは、神であったり、創造主であったり、つまり見えない力の存在を意識した。そして、懸命にその存在との折り合いをつけることを求めた。いや、あるいはそれにとって代わろうとしたかもしれない。どうやって?

寒さに凍えたある夜、風は木々の間に絡んだ弦を震わせる。洞窟の入り口を通る風は唸り声をあげ、枯れた葦の茎が悲鳴を上げる。怖かっただろうね。そして、その正体を知った時、服従と向き合い、そこから逃れる術を思いつく。その音を出すことができれば、事態はきっと良い方向に向かうのだと。挑むのか、折り合うのか、願うのか、祈るのか。枯れた茎を咥えて恐る恐る音を出す。弦を張り、それを弾いてみる。あの恐怖の正体が、思いもかけず優しく響く。その一瞬に、いまこそ敵と和解したと・・・・・

見えないものに向かい合う、それこそ人間の人間たる所以だ。音楽の本質もじつはここにある。

話はすっ飛ぶけれど、「見えないもの」で思い出した。群れで生活している動物たちが、その種の保存のためでそうしているのであり、仲間意識や愛情の故なんてちょっとロマンチックすぎると書いた。人間の「愛」とは、もっと質の高いレヴェルの精神作用であって、動物たちの種の保存の本能との決定的な違いは、自己犠牲を伴うことだ。これはとても重要だ。人間の愛には常に「自己犠牲」が伴う。諸君! 周りを見渡してみ給え。そして、自分の愛する人を、自分を愛してくれる人を考えてみよう。そこに払われる自己犠牲の大きさを。きっと納得がいくはずだ。

自己犠牲を伴わない愛は、執着と同質だ。そして、愛の無い自己犠牲もまた存在しないと、言っておこう。

自己犠牲という概念は難しい。現代日本人にとって悲しい記憶にも結びつく。だから、ほとんど語られなくなった。この、自己犠牲が人間における愛の要件だという事を理解できない人達もいて、はなはだ厄介だ。中には、自己犠牲を、洗脳の結果であったり、強制されたものに過ぎないと考える人もいる。自己犠牲=忌まわしいものと考え、そこで思考は止まる。だから、命を捧げた兵士が持っていた愛を理解できない。自爆するテロリストとの違いすら判らないのだ。

命までとは言わないまでも、自分は何のために犠牲を払う覚悟があるのかと、自問自答することは大切だ。そして、今は亡き母をはじめとして、私のために犠牲を厭わなかった多くの人たちのことを想うと、もう居ても立ってもいられなくなるな。

音楽は祈り、愛は自己犠牲・・・(続く)

きょうはここまでだ。

ネアンデルタールの笛・・・(1)

ネアンデルタールの人骨が多量の花粉とともに発見された。その事実によって、専門の学者がどのような推論を組み立てて、「ネアンデルタール人は丁寧に埋葬された」と結論付けたかを私は知らない。これを正しいとするためには、ネアンデルタール人が花を美しいと思い、かつ死者を弔うという感情を持っていた事を証明しなければなるまい。

なぜそんな疑問を持つかというと、私には、審美観であったり、あるいは家族、仲間に対する愛情というものが、原初の人間に最初から備わった本質的な能力だという事が、無条件には信じられないからだ。言葉はおろか、声すら出せなかった人々だ。我々からすれば、人というより遥かに動物に近いだろう。今の私達から知恵というものをことごとく捨て去った時、残されるものは何なのだろうか。愛情という感情は残されるのか、美醜の感覚は残されるのか?

どうなんだろう? ほとんど野生生物と変わらなかったであろう生活をしていたその頃の人間に、現在の我々には本質的に備わっているだろうと考えられている審美観や愛情といったものが、果たして備わっていたのだろうか。私には、野生生物なんて、ほとんど恐怖の中で生きているとしか思えない。突然やってくる捕食者や自然の猛威から自分を守るためには、ただならぬ警戒心が必要なはずだ。そんな中で、花の美しさを認め、死者を悼み弔うだけの余裕がほんとうにあったのだろうか。その頃の人間は自然界の中で、そんな余裕を持てるほどの、強い地位を獲得していたのだろうか?

だから、ネアンデルタール人が笛を持っていたからといって、それで音楽を楽しんでいたなんて、とてもとても考えられないのだ。多くの野生動物は、自らを危険から守ろうとする時、まず何をするだろうか? 力関係が決まっているなら、戦いを挑むなんてロマンチックなことはしない。棘や甲羅や、毒を持っていればまだいいけど、そういうのって決まって弱っちい奴しか持ってない。走って逃げるか? そう、群れを成していれば、追いかけられて、誰かが捕まっても群れが全滅することは無い。群れなんてそういった種の保存の原理から成立するんで、仲間意識や愛情で出来上がったわけじゃないと思うぞ。あとは擬態だな。シマウマの縞ってのもあるし、あぁ、死んだふりなんてのもあるな。敵を騙すわけだ。そんな世界で、いくら人類だからといって、花を愛でて、愛し合ってなんて、ちょっと簡単すぎないか?

そして、その時代、人間の最大の敵はたぶん「自然」だ。たぶん「自然」という概念は持っていないだろうから、ある日突然やてくる、圧倒的な力を持つ見えない敵だ。この敵から、身を守ることが生きていく上での最大の課題のはずで、そこにはどのような試みがあったのだろうか。(続く)

きょうはここまでだ。

キリスト教について知っておこう・・・(4)

長らく更新をしていなかったが、死んだわけじゃないぞ、きょうから再開する。
相も変わらず、暇だったんだが、音楽とキリスト教の関係について書いているうちに、ちょっと考えることがあってね。それで、ずっと考えていたわけ。

実は、こんなことを書こうとしていた。
---例えばミサ曲を演奏する場合、そのラテン語のテキスト訳を学ぶよりも、礼拝そのものの構成、そして礼拝の中での各曲の役割と意味を知っていた方がはるかに役立つ---これは確かだ。
しかし、それでいいんか?っていわれると、なんだかねぇ。
つまり、キリスト教の側から考えれば、ミサは信仰の中心に位置する儀式であって、信仰無しに、知識のみによって参加しようとしても意味は無いと主張できるだろうし、他方、音楽の側からすれば、音楽にとってのリアリティを追求するなら、本物の信仰も必要になるだろう。まあ、あくまでもミサ曲、あるいはこれに類するキリスト教音楽についての話だが。

この疑問は、「音楽は奏者の共感によって正しく解釈される」という前提に立っている。だから、何も教会音楽に限らず、他の音楽にも通じて、明らかにしておくべきことが、なんかモソモソとあるんじゃないかと。このことを考えると、いつも思い出すエピソードがある。チェロの友人の話だが。

「マタイ受難曲を弾くと、その時だけ、『ああ、キリスト教徒になってもいいかな』って思う。」

この感想には、深い意味があると思う。きっと、そう思う時の彼の演奏は素晴らしいものだろうし、その演奏はキリスト教的にも完全に正しいものだろう。他方、共感や解釈は、必ずしも演奏に先立っている必要はないという事も明らかにされている。これは、演奏家が、演奏の瞬間に、音楽に対して、聴衆に対して、どのような精神的立場を取り得るのかという問題に示唆を与えている。

話は飛ぶが、イスラム教の音楽って知ってるか?
答えは「無い」だ。
彼らの考え方では、「音楽は酒や麻薬のように人の心を酔わせて、理性的な働きを麻痺させる。」らしい。
これはこれで、音楽の本質を見ているようだし、はっきりしていてよろしい。しかし、そのせいで、音楽は発展しなかったんだな、あっちの方では。人間て何なんだろうねぇ。まじめ過ぎると、進歩しないんだわ。俺みたいな人間も社会には必要って事か・・・。

で、音楽が先か、教会が先か、どっちが上かなんて話をしても始まらんと思うんで、こんな話はどうだろう。
前にもどっかで書いたんだが、ネアンデルタール人の笛の話。

20年程前に、スロベニアの洞窟で、ネアンデルタール人のものとされる、指孔のある骨製の笛が見つかった。でもねぇ、ネアンデルタール人って、言葉をもっていなかった。話せなかったのよ、骨格的に声、出せなかったらしい。そこで、その笛で、何やってたの?って話だ。この話、実は最後に「落ち」があるんだが、この頃の話って、専門学者を含めて、想像自由の世界だからね。だって、骨と一緒に多くの花粉が発見された・・・だから、死者は丁寧に花を添えられて埋葬されていた。こんなんで、ちゃんとした学説だから。だから、我々も、フルート吹きとして、精一杯想像力を働かせてみようじゃないの。(続く)

きょうはここまでだ。

キリスト教について知っておこう・・・(3)

聖霊降臨後、イエスの誕生を待ち望む期節までは、小さな祝日がいくつかあるが、これは教派によって扱いがかなり違う。こういった教会歴をきちんと守るのは何といってもカトリックだ。そして聖公会、ルーテルなども教会歴を大切にする。改めて確認しておくが、カトリックはローマ、バチカンが中心で、トップは教皇。信徒数は約12億7千万人。聖公会というのは、イギリス国教会の系統。トップはイギリス君主、エリザベス女王だ。聖職者のトップはカンタベリー大主教。信徒数は約7千万人。ルーテルというのはその名の通り、マルティン・ルターによって興されたプロテスタントに数えられる教派だ。信徒数約7千4百万人。そう、なんといってもJ.S.バッハを生んだ教会だ。音楽には特に関係が深い。なんと今年は宗教改革500年目に当たる。「その他」っていうとものすごく怒られそうだが、まだまだたくさんある。省略御容赦。そうそう、ちょっと前の記事に、イスラム教徒の数が、カトリックの信徒数を抜いたとあったな。

ちなみに、神父というのはカトリックのみで使う敬称で、職名としては司祭だ。つまり、神父が教会で司祭として典礼を司る。これが聖公会になると、司祭が牧師として礼拝を司る。プロテスタント諸教会では牧師という職名しか用いない。面倒だと思ったら、カトリックの教会では「神父様」、そのほかの教会では「先生」と呼んでりゃ間違いはない。

さて、クリスマスは12月25日だ。日本ではクリスマス・イブといっては盛り上がり、驚くことに、25日にはクリスマスケーキも半額になっていたりするが、クリスマスは25日だ。その25日からさかのぼること4回前の日曜日から、教会歴の1年がスタートする。この期節をカトリックやルーテルでは待降節、聖公会では降臨節と呼ぶ。英語ではアドヴェントだ。アドヴェントには4本の蝋燭が用意され、日曜日ごとに1本ずつ点火される。アドヴェント・リースとか、アドヴェント・クランツのようにモミの木などの装飾を伴うことが多い。そして、この3週間あまりはイースター前と同じく「悔い改め」の期間とされる。だから、日本でよく行われるこの時期のコンサートは、クリスマス・コンサートではなく、アドヴェント・コンサートというほうが適切だ。このアドヴェントは早くて11月27日、遅いと12月3日に始まる。いわゆるクリスマス・シーズンというのはここからで、いくら商売といっても、これより早くクリスマスなんちゃらと言ってはいかんぞ。

ついでに言っておくと、カトリックなどの教会では、通常午前10時ころの典礼(ミサ)のほかに、祈りの時間が1日に数回決められている。大きなものでは、「朝の祈り」と「夕(晩)の祈り」だ。で、12月24日の夜に教会で行われるのは、「夕の祈り」の拡大版で、ミサではない。ミサではないという事は、聖書の朗読や、聖歌・讃美歌などの繰り返しであって、ミサ曲にあるような、グロリアとか、アニュス・デイなどは歌われることは無いし、聖体拝領(パンと葡萄酒)もない。この祈りの時まで、まだアドヴェントの蝋燭が4本点いているはずだ。クリスマスのミサは、正式には12月25日午前零時から行われる。交通の便を考慮して、若干早く始めるところもあるが。多くの会衆が参加するミサは25日の午前10時ころ始まる。

キリストの誕生は、羊飼いたちに真っ先に知らされた。この頃の都市というのは、城壁で囲まれていて、夜になると城門は閉じられた。羊飼いたちというのは、この城門の外にいる最も下層に属する階級の人々で、そういう人達に救世主の誕生が最初に知らされたという、そういう意味なんだって。単に夜通し起きてたから・・じゃないんだ。

教会には祭色というものが決められている。祭壇の布や、司祭の服の色が教会歴に従って何色かに変えられる。(教派によって若干異なる) この「悔い改め」の期間は、どの教派も祭色は紫だ。だから、アドヴェント・コンサートに呼ばれたら、何かしら紫のものを身に着けているといいかもしれないよ。私は、ネクタイかポケットチーフを紫色にすることにしている。

きょうはここまでだ。

キリスト教について知っておこう・・・(2)

復活祭(イースター)が年によって移動する事は昨日述べた。そのイースターから46日前の水曜日が、「灰の水曜日」と呼ばれる。この日から、イースターまで教会は「悔い改め」の期間に入る。節制をするわけだな。伝統的に、断食とか、「肉を食べない」習慣があった。これは、イエスが宣教を始める前に40日間荒野で断食をしたことに因んでいる。聖書には悪魔の誘惑で試されたとある。神の子としての最終テストだったわけだな。なんで、46日前かと言うと、イースターまでの間にある6回の日曜日を数えないからだ。この期間を、四旬節、大斉節、受難節などと呼び、節制をし、派手な祝い事も控えるのが習慣だった。今でも、カトリック、聖公会などの教会では、結婚式はしない。この期節のほか、クリスマス前の4週間も節制、悔い改めの期間とされていて、同様に結婚式はできない。「結婚式は教会でやりたいなぁ」って思っている君! 憶えておくといいぞ。結婚式場付属のなんちゃらチャペルでは年中やってるけどね。あれ、外国人のすごくいいアルバイトなんだぜ。俺の知り合いもやってる。話が飛んだ。

で、断食しなくちゃならないから、その前に肉を食いだめる。これが、謝肉祭=カーニバルだ。だからぁ、昨日も言ったけど、8月に「サンバカーニバル」なんてやっちゃダメよね。ついでの話だけど、実は敬虔なキリスト教徒は、金曜日に肉を食べないという習慣がある。これはカトリックでも公式にはもう無くなったようだが、個人の習慣として、あるいは社会の一部分に残っている。現在はどうか知らないが、私がベルリンに居たころ、1970~80年代の学生食堂では、金曜日は必ず魚料理だった。もうひとつついでに、この学生食堂にドイツの「良いお家」のお坊ちゃまと昼飯を食べに行った。ちょうど金曜日で、魚だったんだが、このお坊ちゃまは絶対にナイフを使わない。なんでかって聞くと、「これ、魚用のナイフじゃないもん」だって。確かにな・・・。ドイツでは、茹でたジャガイモにはナイフを使わないという習慣があるんだが、これにはびっくりしたね。「絶対に肉用ナイフで魚を食べてはいけない」そうだ。さらについでに、彼は同じシュミッツ博士のクラスで、クラス演奏会のときは必ず暗譜で吹いていた。目を瞑って演奏するもんだから、少しずつ回転して、C.Ph.E.バッハの無伴奏ソナタ吹き終わる頃には、一回転していたという逸話の持ち主だった。話が飛んだ。

イースターが終わると、教会はなんとなく明るくなる。そして、イースターから数えて40日後、イエスの昇天を祝う。これ、教会的には大事な祝日で、諸外国で祝日になっている国も多い。40日と言うのは正確にはイースターから数えて6週間たったあとの木曜日だ。さらにその10日後が、五旬祭、聖霊降臨日と呼ばれる祝日だ。信徒たちの上に聖霊が降りてきた日とされる。計算すれば分かるが、必ず日曜日だ。この日は教会の誕生日と考えられていて、バザーなんかやるところが多いな。今年は6月4日だ。近くに教会があったら覗いてみるといい。あ、日曜日なんで午前中は礼拝やってるから、バザー目当てなら午後からな。

きょうはここまでだ。

キリスト教について知っておこう・・・(1)

西洋の音楽を演奏するにしても、あるいは絵画を鑑賞するにしても、キリスト教を抜きには成り立たない。外国で生活するにしても、米国・欧州のほとんどの国では、独立記念日とか、戦勝記念日などを除けば、ほとんど教会歴に従って休日が定められている。信徒であるか否かにかかわらず、好むと好まないにもかかわらず、知っておきたいこと、知っておかねばならないことがある。

だけどな、大変なんだよ、沢山あって。何回かかるかわからないが、知っておくべき事、知っていて損はしないことを書いていこうと思う。だって、アヴェ・マリア演奏するだろ? ヴェニスの謝肉祭もあるし、カンタータ147もフルートで良く演奏される。ミサ曲、受難曲と挙げていけばキリがない。例えばこんなこともあるだろう。教会だから、「アヴェ・マリア」やれば喜んでもらえると思っていたら、「ちょっと待った!」ということもあるぞ。「マリア信仰」というのはカトリックだけで、聖公会・ルーテル・プロテスタント系の教会には、通常、聖堂・礼拝堂にマリア像を置かない。厳しい教義を守る教会では、同様に「アヴェ・マリアはダメ」って言われることもあるぞ。これらの教会では、事前に牧師とよく話しておくことが必要だ。最近ではこんなことを言う教会は少なくなったが、牧師さんの裁量の範囲なんで、OKが出れば、みんなで気持ちよく楽しむことができる。謝肉祭=カーニバルだが、あのヘソ出して踊るのは南半球だからだ。カーニバルはだいたい2月上旬だからな。これも教会歴から来たお祭りだ。日本で夏の8月にブラジルあたりのお姉さん達を連れてきて、水着で「カーニバル」やってるどこそかの町があるけど、ありゃぁ超恥ずかしいな。目当てが水着のお姉さんって、ミエミエだもんな。話がそれた。

教会歴というのは、1年を主イエスの生涯になぞらえて、そのできごとを1年を周期として記念するために決められている。本来であれば、降誕を待ち望む期間、アドヴェントから始まるのだが、昨日がイースターだったので、話をそこから始めようか。

イースター、復活祭だな。日本では、クリスマスがいつかは、誰でも知っているが、イースターがいつかを知る人はほとんどいない。キリスト教的には、いや、常識的にもだ、イエスの誕生よりも死後の復活の方が遥かに大きな出来事なので、ほんとうはクリスマスなんかより大事な祝日だ。(突っ込まれると困るので書いておくが、イエスの誕生は、「闇にさす光」という意味でとても大切なことは確かだ。) この祝日は年によって動く。なぜなら、「春分の日の直後の、満月の日の直後の日曜日」と決められているからだ。だから、早い年は3月のイースターもあり得る。

そして、このイースターの前の一週間は、受難週、聖週間、聖週などと呼ばれ、とても重要だ。これはイエスが十字架に磔けられるまでの一週間を象徴する週だから、キリスト教徒は静かに、厳かに過ごす。教派によって呼び名が違うんですごく面倒なんだが・・・。木曜日は聖木曜日、ま、最後の晩餐の日だな。特別な日は聖金曜日だ。イエスが十字架に付けられた日だ。午後3時。受難曲を演奏するなら、最もふさわしいのがこの日だ。俺は家にいる時は円盤で「マタイ受難曲」を聴く。多くの国ではこの日は休日になっている。聖土曜日はイエスは眠っているので、何も行われないのが普通だ。そしていよいよ次の日、イエスは復活する。こうしてみると、イースターというのが、クリスマスに比べて劇的な転換の日であることがお分かりいただけると思う。

きょうは、イースターの次の日の月曜日。イタリアではイースターをPasqua(パスクワ)と呼び、この月曜日をpasquetta(パスクェッタ)と呼ぶ。この日も祝日で、みんなでピクニックに行くんだそうな。いいな。

きょうはここまでだ。

フルートの選び方・・・(7)

あたり前の話だが、最高の楽器を持てば最高の音楽家になれるわけではない。だから、少なくともある種の音楽家は、自分にとって常に最高の楽器を探し求めなければならないとは思っていない。彼にとって重要なことは、音楽について考え、まさに音楽をすることであって、その欲求が満たされている限り、「今持っている」楽器で充分なのだ。楽器探しの旅に出ることは、彼の目的ではないし、またそんな時間もない。それでも、あるきっかけで、彼の前に素晴らしい楽器が現れ、そのことが彼の新たな音楽的欲求を刺激する事もあるだろう。この瞬間こそ、職人と奏者が「出会う」瞬間であり、新たな可能性が芽生える瞬間かもしれない。でもそれは頻繁に起こることではない。ああでもないこうでもないと楽器について注文を付ける奏者と、単に楽器の「性能」だけを宣伝するメーカーとのやり取りは、単なる市場のざわめきに過ぎない。

マルセル・モイーズがずっと洋銀のフルートを吹いていたとしても、それがそのまま、銀よりも洋銀の方が優れているという選択の結果だとは言えない。「銀よりも、洋銀の方が良い」と言ったわけではないし、「銀じゃなくても、洋銀で間に合う」と言ったわけでもない。

奏者の誰もが、常に「最高の楽器」に飢えていると考えるのは、奏者に対する大変な侮辱だ。だから、誰それが、どこそこのメーカーのこれこれの楽器を吹いているからといって、自分の楽器選びの基準にはしない方が良い。有名な奏者になれば、メーカーだって楽器の1本くらいタダで提供する。直営ショップの店頭に、その楽器を持った奏者の写真とサインでも置けば、充分ペイするだろう。

以前、私の演奏会が終わった直後、楽屋にやって来た男が居た。突進してきて、「楽器を見せてください」と言ってきたので、「そこに置いてあるよ」って答えた。何か質問でもあれば答えようと思っていたが、しばらく見ていて「ありがとうございました」って言って帰っていった。なんじゃい、あいつは。

ある奏者が、自分の師が他界した後真っ先にしたことは、そこへすっ飛んで行って、遺族から楽器を買い取る事だった。王貞治のバットを持てばみんなホームラン王になれるなんて、小学生でも考えないだろうに。情けない話だ。

買い替えについては上記の通りだが、では、初心者はどんな楽器を選べば良いかだ。結論から書く。調整がきちんとされていることが大前提で、カバードキイ、C足部管、Eメカ付き。この線は崩さない方が良い。そして材質は、洋銀製、または頭部管銀、胴体洋銀製。中古で程度が良いものが見つかったら、総銀製もいいだろう。メーカーは知られているところがいいだろう。安価なメイドインチャイナはやめとけ。体験レッスンとレッスン契約で、その場でタダで楽器をくれちゃうナントカ商法もある。絶対引っかかるなよ。謎の壺みたいなもんだからな。いや謎の壺の方が夢が無限だから・・・

最初は楽器の扱いもわからないし、続けられるかどうかも判らないのだから、ある程度練習して、上達したらグレードアップしたらいい。この買い替えというのは、もう一度自分の覚悟や、自分の音楽に向かい合うことができるチャンスでもある。この意味は大きいね。

最後に。金の楽器は私は使わないし、人にも勧めない。金の楽器を買うお金が無いのも確かだが、それよりも、あの、音が直線的に飛ぶのが嫌だ。吹くのに力がいるとか、そんなことは私としてはあまり気にしないが、聴衆ひとりひとりの耳に、音を叩き込むのは私の目指すところではない。2時間の音楽会で、疲れることなく、空間全体が暖かく響くのは銀だと思っている。これらはすべて誤解かもしれないが、今の楽器で「不自由したことはない」のが、一番大きな理由だ。

きょうはここまでだ。

フルートの選び方・・・(6)

1)Eメカ
悩むこたぁ無いよ。付いてるのにしといたらいい。構造的、原理的にはついているのが正しい。無くても出せるって言ってる奴がいるけど、そりゃぁ出るよ。みんなFis3(3オクターブ目のファ#)だって出してるんだから。構造・原理を追求するなら実はFisメカも必要だ。構造的・原理的に正しいんだから、音程も正しい。議論をしても始まらない。「付いているべき」なんて言うと、「じゃぁ、お前らFis3はいいのかよ」って言うだろうしな。ま、少なくとも3オクターブ目のE(ミ)1個でも音が出しやすく、音程が正しいならその価値はあるね。最近のフルートでは機構上の問題が無くなったようだから、標準仕様で付いていた方がいいと思うんだが。なぜ2種類出しているのか少々疑問だ。そんな面倒くさいことするなら、いっそのことGisオープンを出してくれればいいのに。Gisオープンなら、Eメカ的運指を、使うも使わないも「どうぞご勝手に」だ。Eメカ付いてるとG-Aトリルができないって?確かにな。・・・G3(3オクターブ目のソ)の運指から人差し指と薬指を同時に上下させてみな。はい、終了!

あはは、そうだよ、普段から練習しとかないと出来ねえよ!

2)H足部管
オーケストラでHが出てきても、そんなに慌てることは無い。はがきで筒を作って足にかませりゃ出る。局面によってはちょいとひと工夫しなくちゃならないかもしれないが。フレンチモデルならH足部管の方がいいと、昔は言われていた。最近は知らん。たぶん付いていた方が、3オクターブ目がヒャラヒャラしないはずだ。でもな、重くなるぞ。それも右端が重い、だからバランス的に通常、頭部管の方が持ち上がってしまう。左端に重りを付けて調整してもいいけど、そうしたら全体が重くなって、気が付いたら筋肉隆々だな。だから、右端が重いフルートを吹いている人に多いのは、楽器の右をかなり下げて、持ち上がった歌口がちょうど口に当たるようにしている。唇と平行にするには、当然、頭を相当傾げないとならない。さあ、こんな姿勢が一体どこに影響するのか・・・構えに無理があると、指は準備態勢を充分にとれないだろう・・・首傾げて呼吸するのと、真っすぐで呼吸するのとどっちが楽か・・・。

それからさ、H管持ってるならロングトーンもスケールもちゃんとHまでやれよな。

3)引き抜きかロウ付けか
ハンドメイドクラスの話なんだが、トーンホールがどう作られているかの問題だ。予算があるなら、ロウ付けにしたらいいと思う。最初は鳴らないかもしれないが、後々良くなってくるはずだ。引き抜きの弱点は、管から引き揚げた後、エッジを外側に丸めるんだが、その時立ち上がりがわずかに歪む。樽型にわずかに歪む。この樽型というのが曲者で、頭部管の抜き差しを真っすぐにやってないと、頭部管のジョイントが丸まってしまう。そうすると、鳴りが極端に悪くなる。(あ、もしそうなってたら直してもらった方がいいよ。)トーンホールの樽型の歪みも矯正すると良く鳴るようになる。内側の出っ張っているところを壊れない程度に僅かに削ってやるんだ。何もそこまでとも思うよ、だから話だけだと思ってね。こういった部分の加工の精度が少しずつ鳴りに影響してくる訳だから、その手間が値段に反映されているなら、高い楽器にも充分な意味がある。

絶対、自分でやるなよ!

きょうはここまでだ。

フルートの選び方・・・(5)

確かに、昔から「鳴っているねえ」というのは奏者の間での誉め言葉のひとつであった。それは単に大きい音が出ているという意味ではなく、「豊かな」「充実した」「輝かしい」「深みのある」音の事を指していた。その意味から、優れた奏者と言われるためには、小さい音であっても「鳴っている」ことが、必須であった。そして、「鳴っているねえ」と、奏者を主語にせず、楽器を主語にして自動詞を用いるのは、ただ勝手に鳴ってくれる楽器を褒めているのではなく、いくらかでもその評価に客観性を加味しようとしたにすぎない。

ベームは明らかに大きな音を望み、それまでの木製の円錐管だったフルートから、金属の円筒管のフルートを発明した。それ以降、いったいいつの時代に、どんな音楽的欲求から、さらに大きな音をするフルートが求められてきたのだろうか。

翻って、ヴィオラという楽器についてちょっと考えてみよう。そういっちゃなんだが、オーケストラの中でその重要な役割に比して、目立たない楽器の筆頭格である。ごめんよ。ヴァイオリンの完全五度下に調弦されるのだが、「鳴り」を保つために、弦の張力をヴァイオリンと同等にして完全五度下を鳴らすためには、楽器をデカくしなけりゃならない。ヴァイオリンが約36センチだから、完全五度下にするためには約1.5倍54センチが必要なはずだ。フルートだって、たったの4度下げるだけのアルトフルートがあの大きさだ。バスフルートに至っては、たったの1オクターブ下げるだけのために、あのばかばかしい大きさだ。だから、ヴィオラをその大きさで作ったら、はい、手が届きません。現在のヴィオラは大体40センチちょっとだ。つまりなぁ、可哀想に「鳴らねえ」楽器なんだよ。ごめんよ。言い訳しとくと、最近のヴィオラは飛躍的に鳴るようになったな。こういった事情があるなら、「大きな音」を求める動機には充分なり得ると思う。しかし、それでも突飛なアイデアが出てこないのは、ヴィオラが「弦楽器」という共通した構造を持ち、音楽的にも同じ目的を持つ楽器群から離れることができないからだ。

フルートに話を戻そう。フルートが木管楽器セクションにあって、ひとり金属管でやってこられたのは、音の出る原理が他の木管楽器と大きく異なっていたからだ。それでも、「木管楽器」という音楽的目的から抜け出すわけにはいかないのは明らかだ。あの木製の楽器でリードの振動を響かせている他の木管楽器と調和する音とはどんな音なのか真剣に考えてみれば、キャンキャン鳴る楽器で「楽器の潜在能力が増した」なんて喜んでいられないと思うんだがなぁ。一昨日の歌口の問題も、昨日のタンポの問題も同根なんだが、いったいいつから「でかい音」競争が始まったのだろう。

だまされたと思って、音程下がらないようにして、雑音乗らないようにして、ピアニッシモの練習を1時間やってみな。ひとりでにフォルティシモの「潜在能力が増して」るから。

ちょいと話は飛ぶが、フルートの低音のフォルテでむやみに倍音の多い、(たぶん誰かの真似だと思うが)、ビヤァっと、ギラギラしてべっとりとした音が、フルート奏者の間で持ち上げられることが多い。あんな音、他楽器の奏者で評価する奴は殆どいない。そんな奏者に限って、ピアノでボォーっと情けない音を出す。ピアノではなるべく多くの倍音が乗るようにする、フォルテはその逆だ。そうしないと、ピアノとフォルテで音色が違いすぎてしまう。例えば、楽器を選ぶなら、そういうことが容易にできる楽器を選べということだよ。

文句、悪口ばかり書いてきたが、楽器選びの視点がいくらかでも変わってくれたらと思う。また、高い楽器は多くの割合で精度が高く作られていて、狂いが少ないという事もお分かりいただけたらと思う。まさか、新素材の値段とか、特許料の値段で高くなっているとは思いたくもないがね。

きょうはここまでだ。

フルートの選び方・・・(4)

フルートのタンポの構造が良くわからなかったら、もう一度昨日のところを読んでみてくれ。まず誰でも考え付くのは、フェルトや紙は変質・変形するから、ぴったりトーンホールを塞ぐような別の素材でタンポを作ろうという事だよな。たぶん色々試されたんだと思う。確かにどんな素材であれ、密着して空気が漏れ無ければ音は出る。しかも、新素材で密封すると、全く空気漏れがないから、ばかデカい音が出る。でもなぁ、楽器なんだからどんな音が出るかが第一の問題。第1回目に書いたが、大きい音、うるさい音、豊かな音とある。色々なメーカーや個人が新素材を使って「狂いません!」「大きい音が出ます!」って宣伝してるけど、俺に言わせりゃ、はっきり言って、全部アウトだ。音がひどすぎる。キャンキャン鳴るだけで、ものすごく神経が苛立つ。1時間レッスンしてるとぐったり疲れてしまうんだ。音だけで、音楽が聴こえてこない。前回、「良い楽器は吹き方を教えてくれる」と書いたが、その真逆で、これは確実に奏者の音楽性を奪う代物だ。音大に入って、これらの「いい」楽器を買ってもらって、音楽ができなくなってしまった学生の話を知っている。一人や二人ではない。

新素材の宣伝をしているHPでこんな記述があった。「この響きの強さ、音量などは、広い見方でとらえて音色の相違と解釈することもできますが、実質的には表現する上での潜在能力が向上したということもできるでしょう。」ちょっと待ってくれ。楽器の潜在能力って、音の強さや音量なのか?車の性能と間違えてないか?サーキットでスピード競争をするように、フルートで果し合いでもするんなら、他を圧倒する音量や、強さは武器にはなるだろう。そうすればいい。しかし私達の本当の目的は、今まで散々書いてきたように、フルートの音を用いて音楽をし、ハンス・ペーター・シュミッツ博士の言うところの「あらゆる人間の生の精神物理学的根源の暗闇に休息しているこの核・・・」において、互いに結びつこうとしているのだ。そこは暖かい風の吹く情熱の世界であって、絶叫や悲鳴やアジテーションの響く世界ではない。もし、楽器に潜在能力があるとしたら、それは私たち人間と同じく、「どれだけの困難な局面にあっても、どこまで優しくなれるのか」といったような能力のはずだ。

ついつい興奮しちまったな。でね、素材をフェルトのままにして、狂いを無くそうという工夫も色々試みられた。ものすごく薄いフェルトにして、それを金属製の台座や、カップ形状のものに入れてそれをカップに入れるような工夫だ。これも、失敗に終わったはずだ。音、硬すぎ。時期の前後は不明だが、某メーカーは、カップの中にまず金属板を入れた。底が平らになるもんな。その上にうっすいフェルトのタンポを入れた。音が固いだけじゃなくて、キイがものすごく重くなった。大リーフ養成ギプスだな。(古い例えですまんな)。でもな、大リーグ養成ギプス付けたまま試合に出ちゃまずいでしょ。そこで、その金属板に穴をあけて軽くしたんだよ。するとどうなったと思う?半年たったら、タンポの表面にその穴のポコポコが浮き出てきたんだ。笑い話だよ。こんなの試作以前の話で、売っちゃまずいでしょ。車だったらリコールどころか、発売前に陸運局でアウトだ。命にかかわらないからイイとは言わせない。今でも多くのフルートはカップの中にプラスチックの台座が入っている。開けてみなきゃわからないんだが、もしそうなら、オーバーホールして自然素材に替えることをお勧めする。お金はかかるけど、自分の楽器が暖かく、優しくなって帰ってくる。その価値はあると思う。

以前、カップの大きさが、トーンホールに比べて小さめに作られた楽器に出会った。有名メーカーの高級フルートだ。カップが小さめという事は、タンポの外周近くでトーンホールに接するので、こいつの調整はどえらく大変だった。こういう所もチェックポイントになるぞ。

良い楽器は、良い職人と良いフルート奏者が出会うことによって創られる。すべての良いものは、いつの時代でも、どこにあっても、良心的で、意欲に満ちた人々の出会いによって創られる。それは、どんな天才の思い付きよりも優れたものだ。改良が音楽的欲求から生まれたものなら素晴らしいことだが、単に技術的、合理的、あるいは生産性の向上を目指して生まれたものなら、奏者の拒否にもあうだろう。メーカーの論理と奏者の論理は違う。だから私は文句を言う。

きょうはここまでだ。