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続々・ヘルムート・ハンミヒ氏のこと

その巨匠ヘルムート・ハンミヒの頭部管なんだが・・・
イイんだ、ほんとに。見たところは、なぁんにも変わったところがない。一時期流行った、絶壁リッププレートでもなければ、サイドのカットもほとんどない。でもね、いい音するんだよ。そして、何よりなのは、「吹き方を教えてくれる」んだ。つまり、吹き方が正しくなればなるだけ、いい音になってくれる。だから、正しい吹き方の方向が分かるし、その結果がすぐに音になって現れる。

この頭部管にフルートの吹き方を教わったと思っているし、あのヘルムートさんの工房や、温かい人柄、穏やかな表情を思い出すと、これ以上の楽器はないと思っている。たとえあったとしても、私には必要ない。ついでに言うと、胴体の方は、TAKUMIという、もう今では存在しないフルートだ。これも、ヤシマフルート・田中さんにじかに頼んで作ってもらった。これを、友人にして敬愛する田村フルート・田村氏にチューンアップしてもらっている。

これらの楽器を手に入れられたことによって、そして何よりもまず、楽器つくりに情熱を持っている人たちを知り得たことによって、私の音は存在し、命を持つことができる。だから、私はこの35年あまり、自分の楽器について1秒も悩んだことがない。いい音が出なかったら、全部自分のせい。これ以上の楽器があるなんて想像もつかない。これって、フルート吹きにとっては、最高の幸せだと思う。加齢によって、若い頃とはできることと、できないことが違ってくる。その違いも、ずっと1本の楽器を使っていれば、正確に把握することができる。加齢だけじゃない、見えないうちに、気が付かないうちに徐々に自分の肉体は、変化していっている。しかし、その変化が自分の出す音の変化になって感じられるのは、大抵ある日突然だ。それを楽器のせいにして、さんざん悩み、製作者に迷惑をかけ、莫大な時間を無駄にしてしまった奏者を私は何人か知っている。

こと楽器に関して、私がいかに幸運であったかをおわかりいただけると思う。今の時代では、どこそこのメーカーのフルートの、ナントカモデルで・・・しか判らないから、片っ端から吹いてみて、なんとなく気に入ったり、なんとなく妥協したりして、もっといい楽器、もっといい楽器は無いかって何時でも考えている。止むを得ないことかもしれないが、楽器はそれ自身、命も情熱も持っていると考えられたら、また新しい取り組みが生まれて来るのではないだろうか。

話が4日前に戻るが、フルトヴェングラーが「作品と直接に対決せよ」と語ったのは、楽器の場合と同じように、曲の背後に存在する作曲家の命と情熱に結びつけという意味ではないかと思う。そのことによって、曲に対するほんとうの敬意が生まれるから。

きょうはここまでだ。

続・ヘルムート・ハンミヒ氏のこと

フルートの内側に隠してもダメなので、頭部管のヘッドコルクをばらす。コルクを引き抜いてコルクの代わりに紙幣をぐるぐる巻いてやる。前後は金属板なので、ヘッドスクリューをとっても、その中のネジまで引き抜かなければばれない。(フルートの構造はここを見てくれ)巻ける紙幣には限りがあるが、西ドイツマルクには当時、500マルク札、1000マルク札というのがあって、大体5万円札、10万円札だ。だから、まぁ、やろうと思えば20~30万円は隠せるわけだ。高額紙幣は、世界的に廃止の流れになっている。高額紙幣を便利に使えるのは悪いことするときだけだからな。ユーロは500ユーロ札を廃止にするらしい、そのほとんどが地下からロシアに流れているという話だ。

で、だ。まず教えられた住所を頼りに、東ベルリンのハンミヒ巨匠の家を訪ねた。この時は、お金持っていかない。電話もしない。手紙も出さない。盗聴なんか当たり前の国だったから。でも、ほんとに貧しい国で、慎ましやかな生活をしていた巨匠だから、まず在宅しているという話だった。訪ねると、奥様が出てきて、今散歩に行っているから1時間後にまた来てくれという。こういった時間の流れが、今の時代にはあり得ないゆったりした人間味を感じるね。1時間後に尋ねると、ちゃんと巨匠が待っていてくれた。温厚で、優しそうな、どこにでもいそうなドイツのおじさんだった。工房といっても、3畳くらいの暗い部屋で、しかし、使い込んだらしい道具類はものすごくきれいに整頓されていた。日本人で、シュミッツ博士の生徒で、私のために頭部管を作って欲しいと言うと、二つ返事でOKしてくれた。金額は西の500マルクで良いと言ってくれた。そして、半年たったらまた訪ねて来いと。

貧乏学生だったので、500マルクの捻出には結構苦労した。日本人の音楽学生の面倒をよく見てくれた「京都」というレストランがあって、アルバイトさせてもらった。このレストランのご主人「しんちゃん」とママには本当にお世話になった。ありがとう。いつか機会があったらこのことを書くつもりだ。結局、再訪問できたのは8か月後になってしまった。もちろん、この間手紙も電話も無しだった。でもね、ヘルムートさんちゃんと取っておいてくれた。そして、引き取りが遅れたことを詫び、ほんの軽い気持ちで事情を話したら、50マルクのお釣りをくれたんだ。お前、学生だろって。この時、ほんとうにすまない事をしたと思った。だって、貧乏学生とはいえ当時の東ベルリンの状況からすれば、はるかに贅沢な暮らしをしていたのだから。

ヘルムートさんの工房の事を書いていたら、思い出した。ムラマツフルートの創始者、村松孝一氏にも会ったことがある。新宿・柏木に小さな工房があった。あそこも、小さな、「きれいとは言えない」家だったなぁ。(誰だか知らんが、新宿の地名も勝手に変えちまいやがってね、柏木という地名はもう無い。西新宿だってさ。)実は、名器は、特に楽器はものすごく小さな工房で作られていた、フルートだけじゃなくね。綺麗に飾られた楽器店のショウケースのなかで見る楽器は、輝いていて、ワクワクするものだけど、匠たちが真っ黒になって作ってるんだ。ブランド名や金額で楽器を見てしまうけど、その後ろに名匠の顔を思い浮かべてみよう。ヘルムートさんや村松さんの顔を知っているというのは、幸せだな、ジジイならではだろ。匠の顔を思い浮かべると、楽器の買い替えなんてそんなにできるもんじゃない。楽器で悩むのも、すごく申し訳ないような気がする。

きょうはここまでだ。

ヘルムート・ハンミヒ氏のこと

ここから以下の話は、たぶんもう時効だから書く。
1980年頃、ヘルムート・ハンミヒ(Helmuth Hammig)氏は東ベルリンに住んでいた。奥様と二人住まいの小さな、簡素な家で修理を中心に仕事をされていた。息子さんを亡くされて、フルート全体の製作はもうできないということだった。人づてに、頭部管だけは作っているらしいと聞き、訪ねて行った。もっと正直に書くと、西ドイツマルクで支払えば、密かに頭部管を作ってくれると聞いていた。

これは完全な違法行為で、当時の東側の体制では、このような行為には恐ろしい厳罰が待っていた。今の人にはほとんど分からないだろうから、ちょっと詳しく書く。東側の庶民にはドルや西ドイツマルクは手に入れることが困難だった。さらに、ドルや西ドイツマルクでしか買い物ができないインターショップというのがあって、旅行者や、エライ人たちに西側の高級品を売っていた。ではなぜ、巨匠はそうまでして西ドイツマルクを必要としたか。「奥さんの好きなコーヒーが、インターショップでしか手に入らなかった」。 当時の東側のコーヒーはほんと酷かった。あれ、たぶんコーヒー豆じゃない。何度か乗ったアエロフロート(ソビエト航空)なんか、食後にコーヒー注文したはずなのに、紅茶が出てきて、キャビンアテンダント(当時はスチュワーデスだ)に聞いたら、「それコーヒーだけど!」ってムカツかれた。そのうち、何度飲んでも、最後まで、コーヒーなんだか紅茶なんだか解らなくなった。最終的に、どちらも好きな人にとってはたまらない、優れた飲み物だということが解った。

話、元に戻す。東西に分断されたドイツ、西ドイツは西ドイツマルク、東ドイツは東ドイツマルクを使っていた。公の交換レートは1対1。つまり、西ドイツマルクを東ドイツに持っていけば、東ドイツ内の両替所で、等価に交換してくれる。しかし、あらかじめ西ドイツの両替所で西ドイツマルクを東ドイツマルクに交換すると、1対4から1対5くらいで両替できる。闇金だ。ヤミキンじゃないぞ。ヤミガネだ。公のレートとこの闇レートの違いは、まあ、国力の違いだ。「んじゃぁ、それ持ってけばいいじゃん」と思うだろ? ところが国境で、有り金全部チェックされる。ここで、東ドイツマルクなんぞ持っていようものなら、没収、裸にされて、◎ん中まで調べられて、何年間か入国禁止だ。上手く隠して東ドイツに持って入ると、ええ、ただでさえ安い物価の東ドイツで豪遊できる。しかしこれ、闇で入ってくるお金ほっとくと、国がぶっ飛ぶからね。豪遊って言っても、まあ、ホテルで食事したり、飲んだりするくらいしか無いけどね、何しろ物資が無いんだもん。ホテルで、ビールが一杯60円くらいの感じで飲めたな。腹いっぱい食って2000円だ。

ベルリンからだと、たいていチェックポイント・チャーリーを通って東ベルリンに入る。怖いんだよ、ここが。東ドイツの警官なんて、ニコリともしないからね。靴のかかとを回したり、鞄のベルトを丁寧にしごいたり、まあ、スパイ映画みたいな感じだ。たまに別室に連れて行かれる。すると、まぁ、ズボンは脱がされるね。西ドイツのマルクで500円程度を支払って、1日のビザをもらう。これは東ベルリン内だけで有効だから、ちょいとライプツィヒまでなんて許されない。東ベルリンに入る時に、持っている西ドイツマルクの額も申告しなければならない。それで帰る時に、東ベルリン内で正当に1対1のレートでお金を使ったかチェックされる仕組みだ。

そういうわけで、豪遊するなら闇の東ドイツマルクを、巨匠の頭部管を手に入れるなら西ドイツマルクを、どこかに隠して入国しなきゃならない。どうする? 楽器の中? イイ線いってるけど、甘いよ。ちゃんと筒の中まで見るからね。ケースの内側もちゃんと押して調べる。 どうする?

今日はここまでだ。

非円盤主義・・・(2)

マエストロは1989年4月ベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。そして、7月死去。一般的には、ザビーネ・マイヤーの一件(1983年)からベルリンフィルとの仲が疎遠になり、ウィーンフィルとの関係を強めたと言われている。

実は、この1989年前後に世界の体制は大きく変わる。11月にベルリンの壁が崩壊し、1990年統一ドイツ成立。それは1991年、ソビエト連邦崩壊につながった。戦後の冷戦体制が崩壊したのだ。社会主義の崩壊は、それまでの西ベルリンの役割を大きく変えた。資本主義のあだ花と言われた存在から、統一ドイツの首都になったのだから。

ベルリンフィルでの演奏が少なくなり、疎遠になり、辞任に至る。それが単にあの一件に起因すると考えても良いのだろうか。背景としての時代を考えると、マエストロの胸の中で、西ベルリン的なものからの訣別が意識されていたのではないだろうか。いや、もっとはっきり言おう、冷戦構造が東側で行き詰っていたと同じように、西ベルリン的価値に組み上げられたマエストロの音楽も、終焉を迎えつつあったのだ。

彼はまぎれもなく20世紀の大指揮者であった。しかし、音楽家として、指揮者として、いったい何をしたかったのだろうと考えると、私には決して成功した音楽家とは思えない。どうせなら、もっともっと突っ走ってくれたらよかった。今、映画を舞台演劇の別表現とは誰も考えないように、それくらいの別の可能性を円盤に示してくれたら良かったのにと思う。

彼の死後、30年近くが経とうとしているけれど、その間音楽は変わったのか? フルトヴェングラーの死後、30年経った時のカラヤンが、いかに音楽界に君臨していたかを考えて見よう。残念なことに、未だに次なる巨匠の現れる気配は無い。

インターネット、ダウンロード、そしてYoutube。ここから、誰も次の可能性を見いだせていない。流されているだけだろう。どうだ? 諸君! 俺の「非円盤主義」に一票入れてみないか?

今日はここまでだ。

非円盤主義 ・・・ (1)

マエストロはつまり、ドイチェ・グラモフォンと結託して、いや協力して沢山レコーディングしたわけね。そりゃぁレコード売れれば、みんなが楽して儲かる。だから、そのレコードの宣伝のために、イメージ戦略も必要だった。実際それは成功した。その成功は、ベルリンフィルひとつに留まらずに、クラシック音楽に人々の注意を惹きつけたのだから、決して悪くは言えない。だが、録音され、大量販売される音楽の成功と、演奏会での音楽の成功とでは、価値も、目指す方向も全く違う。

演奏会ではあり得ないほどの弦楽器パートの人数を動員し、(管楽器もだ)、音の厚みを増し、気に入らないところは採り直し、継ぎ合わせる。何回聴いても、いや、何回聴かれても欠点は見当たらない。オーディオルームで正座して聴こうが、風呂に浸かりながら聴こうが、電車の中で聴こうが、流れてくる音楽はいつも同じだ。何なんだろ。しかし、そうはいっても、私だって思わず手を止めなければならないほど、ステレオ(死語だな)から流れてくる音楽に、耳を引っ張られた経験は沢山ある。聞かないわけじゃないからね。でもね、その殆ど全部が「歴史的録音」ってやつなんだわ。ライブ録音だったり、当時まだ録音自体「キワモノ」だったころのものだ。

じゃ、あのカラヤンとベルリンフィルの「演奏会」はどうだったか。ええ、素晴らしかったですよ。だって、ソリストたちが普通じゃないもの。当時、ソロフルートはツェラーとブラウで、若いブラウの方が安定していた。ツェラーは大抵、不調だったけど年に数回は神がかった音を聴かせてくれた。オーボエのコッホの艶やかな演奏も魅力的だった。下から上への跳躍で、必ずディミヌエンドがかかるんだけど、その艶っぽさは殆どエロティックだった。クラリネットのライスター、ソロが終わるとドヤ顔の代わりに、左手をすうっと楽器から離す仕草が、なんとも悔しい魅力だった。ライスターは学生時代、ホッホシューレに泊まり込んで練習していたらしい。我々の時代には禁止されていたけど。ホルンのザイフェルトは大ソロの前に、周りの奏者に因縁付けながら、つば抜きをせわしなくやってて、それで、完璧に吹いた。チャイコフスキーの5番、涙が出たぜ。ベルリンフィルの本拠地、「フィルハーモニー」はカラヤンサーカスと呼ばれていたけれど、内容もそういったサーカス的なソリに支えられていたと私は思っている。

しかしこれは、ある意味で当時のベルリンの価値観だったのではないだろうか。東西に分断されたドイツの東側、その中の都市ベルリンがさらに東西に壁で隔てられていた。西ベルリンは、赤い海に浮かぶ資本主義の孤島だった。ベルリンというのは戦後から、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の共同統治で、そのうち東ベルリンをソ連が統治し、西ベルリンを他の3か国が統治していた。だから、西ベルリンの空港には、パンアメリカン、ブリティッシュエアウェイ、エアーフランスしか飛んでいなかった。ルフトハンザは飛べなかった。そして、賃金には8パーセントのベルリン手当が支給されていたし、当時ドイツにはまだあった徴兵も無かった。そこまでして、あの小さな壁に囲まれた空間を、繁栄する西側のこれ見よがしのショールームに仕立て上げていた。ドイツ的落着きよりも派手好きで、どこか刹那的なベルリンの様子は、きっとベルリンフィルの中にも生きていたのだろう。各ソリストの演奏は、見事の一言に尽きる。しかし、曲全体が何を語り得たかと問えば、あまり成功したとは言えなかったのではないか。東側のオーケストラの演奏の方が、派手さこそないものの、しっとりと胸に迫るものがあったと。ブロムシュテットとドレスデン歌劇場オーケストラ(Sächsische Staatskapelle Dresden)なんか、帰りに胸の中にあったかーい物を残してくれた。(続く)

きょうはここまでだ。

眼を開けて答えてみよ!

私たちは今、CDやDVDを聴いたり見たりする、あるいはダウンロードして聴いたり、YouTubeもある。音楽をそうして、それが当たり前のように受け取っている。

それでいいのか? それで音楽は充分に役目を果たせるのか?私は若いころからずっとそのことばかりを考えてきた。

もし音楽が録音も再生もできない、大昔の状態のままだったら、思い悩むことは無かったのだが・・・音楽は、まさにそこに存在し消えてゆくという、現実そのものでいられたのに。録音と再生ができるようになったばっかりに、音楽がもたらしてくれるはずの物を、空想の、仮想の領域へ追いやってしまったのではないか?

音楽によってもっと泣き、笑い、怒り、喜び、勇気づけられたはずなのに、消えゆく音にもっと敏感になれたのに。そして、新しい音楽が生まれることを、計り知れぬほどの期待と喜びを持って待ち望むことができたのに。

かつて音楽と私たちは、もっと近くに、肌も触れんばかりの近くに互いを感じていたはずだ。愛する人のように。その愛する人が、一枚の写真を残して去ったとしても、それでもまだ幸せだというのか。違う、常にそこにあって、私を新しくしてくれたからこそ、愛したのではなかったか?

昨日も、今日も、円盤を機械にかければ、同じ音楽がスピーカーから流れてくる。スピーカーったっつて、どんな高級品だって紙じゃないか。マイクロフォンだって紙だろ。録音だって、何百か所も継ぎ接ぎしてあるんだ。音だけじゃなく、奏者の気持も繋げられるというのか? 奏者だって似たようなもんだな。聴衆の代わりに林立するマイクロフォンに向かって、ほんとうに音楽が出来るのか? おい、2楽章と3楽章の間に昼飯喰わなかったか? 自分と聴衆を熱狂させることよりも、早く仕事を終えられるほうを選択しなかったか?

いったい、いつから音楽は平気でこんなに不誠実な態度を取れるようになったのか。いつから、そんな安っぽい愛人で我慢していられるようになったのか!

帝王カラヤンよ! 眼を開けて答えてみよ!

ああ、もう居ないのか。

今日はここまでだ。

思い出話・・・あの頃のベルリンフィル(3)

あの夜、音楽は勝利した。あの空間の中で、最初に示された現実。それは、カラヤンの背中であった。そして、聴衆は我に返った。不確かな話の伝搬によって巻き起こされたブーも拍手も、その威厳ある小さな背中によって、一瞬のうちに葬り去られた。音楽とは、今まさに鳴り、そして瞬間に消えていくという圧倒的現実だ。そして閉ざされた演奏会という空間においては、たったひとつの現実でもある。それを眼前にして、自分がほんとうに見たこと以外を信じてはいけない、本当に聴こえてきたもの以外信じてはいけないと、皆が、そんな気持ちを共有しているようでもあった。

ザビーネ・マイヤーが問題になる数年前、オーボエの首席奏者、シュタインツの後釜にシェーレンベルガー決まったのだが、この時の彼をよく覚えている。定期演奏会に最初に彼が出演した時、何かもやもやとした違和感があった。浮いているというと言いすぎで、言葉に微妙な訛りがあるような感じか、いや違うなもっと微妙だな、何かちょっと色が違う感じだった。しかし、次の演奏会でその違和感が、全く無くなっていて、昔からフィルハーモニカーとしてそこに座っていたかのように、ベルリンフィルの音を堂々と演奏していた。印象的なんでもんじゃなく、「あそこに座る奴はやっぱり凄いな」と本当にびっくりした。で、ザビーネ・マイヤー嬢なんだが、この微妙な違和感が何回やっても無くならなかった。「なんか違う」んだな。ものすごく優秀な転校生、美人で性格も良く、頭が良くて人気者。だけど、手を上げるタイミングが皆より微妙に早い。そんな感じかな。いや、答えは正しいし、出しゃばろうとしているわけでもないんだが、スッと手が上がっちゃうんだよなぁ。いつまでたっても。だからといって、「君さぁ、もう少し手を上げるの遅くしてくれない?、0.2秒くらい」 って言えないだろ? それが全てと、私は思っている。

あれから30年以上が経った。もし今の時代だったら、カラヤンだってあんな叩かれ方では済まないだろうな。恐らく舞台袖に立つ前に、あらゆる媒体で、あらゆる方法で攻撃を受けるだろう。そして何よりも聴衆に、その時、我に返るだけの理性が残っているのかどうか。

今、世界中の色々な記者会見を見る。日本では、謝罪会見という妙ちきりんな儀式もある。ほんとうに被害を与えてしまった人にではなく、マスコミという権力者に頭を下げさせられるのだから、見ていて吐き気がする。怖いのは、我に返る理性を無くしているその権力者たちだよ。示された現実に気づくことができず、いつまでもブーも拍手も止めないチンピラがいちばん怖い。音楽が、リアルを捨てちゃいけないというのは、そいつらと戦わねばならないからだ。

きょうはここまでだ。

思い出話・・・あの頃のベルリンフィル(2)

あの事件。そう、ザビーネ・マイヤーの一件だ。カラヤンがソロクラリネット奏者にザビーネ・マイヤー嬢をゴリ押しで入団させようとし、オーケストラが反対し・・・という事件だ。どこから、どんな経緯でリークがあったのか、ある日突然、世界のニュースになった。ドイツのテレビでもトップニュースだった。やれカラヤンの彼女だとか、オーケストラは女だから拒否したんだとか、ろくでもない下種の勘繰りみたいな話が、まことしやかに語られていた。その、大騒ぎの日、ベルリンフィルの定期演奏会があり、指揮者はカラヤンだった。

凄かった。カラヤンが舞台袖に姿を現した途端、ものすごいブーの嵐。あのでかい体のドイツ人のブーは、半端ないからね。しかし、今度はそれに対抗して、被さるようにまたすごい拍手。これが鳴りやまないんだ、怒号も飛んで、これはいったいどうなるんだろうと思ったよ。その間、カラヤンは指揮台の前で、やや下を向いたままじっとしている。まったく表情は動かなかった。どれくらい続いただろうか、数分だろう、次の瞬間、カラヤンがくるっと後ろの指揮台に上った。カラヤンの背中が客席に向いたその瞬間、今まで体験したことのないような静寂がホールを支配した。まるで、ブレーカーが落ちた時のように、不意を衝く静寂だった。きっと誰もがその静寂にびっくりしていたと思う。そして、何事もなかったかのように、いつものように、音楽が始まった。その日、ブーを聴くことは二度と無かった。

カラヤンは背中で聴衆を黙らせた。ブーにしろ拍手にしろ、あの帝王には何の意味もなかった。ただ皆が、彼の音楽の前にひれ伏すことを求め、そして、それができる指揮者だった。その指揮はオーケストラだけではなく、2000人の聴衆にも及ぶことを証明した。

でね、その時の曲が何だったか、全く思い出せないんだな。でも、あの背中だけははっきり覚えてる。カラヤンという指揮者は私にとってはベストではないんだが、しかし、あんな指揮者はもう出ないだろうなぁと思うね。個人の音楽性や、カリスマ性だけでなく、今の時代、情報の伝わり方も全く異なってしまったからね。あの夜の演奏会を体験した2千人余のリアルの重みが、今の時代に再現され得るとは思えない。今は、リアルの重みが無くなって、世の中が動いていくような気がするね。思いがけなく、重みのあるリアルを目の前にすると、みっともなく右往左往するんだが。

音楽はリアルを捨てちゃいけない。本当に怒り、本当に泣く。

で、ザビーネ・マイヤーは本当のところどうだったのか? 明日書くよ。

きょうはここまでだ。

思い出話・・・あの頃のベルリンフィル(1)

ブログ書いてると、色々思い出してしまうな。特に頭にくる話な。だから、頭に来ない話を書く。私がベルリンにいた期間は、まさに帝王カラヤンが君臨し、そして、あの事件が起きるまでだ。全盛期だったと思う。ま、演奏はフルトヴェングラーの方がはるかに好きだったけどね。定期演奏会は殆ど聴いた。貧乏学生だったから、最初の頃はポディウム(Podium)というオーケストラの後方の席で聴いていたが、しばらくして、舞台の右上の5階席で聴くようになった。値段はどちらも同じくらいだったと思う。1000円弱だ。あのオケ裏の席、指揮者はよく見えるけど、音は最悪だ。って事は、オケで吹いてても聴こえてくるのは最悪ってことだな。確かに、その舞台上でオケやってると、音程が合わなくて思わず身震いしたような場面でも、後から客に聞くと、すごく綺麗に響いていて気にならなかった、という事はよくあった。あのフィルハーモニーというホールは魔法のように美しく響いた。

定期演奏会のチケットを手に入れるには、いつも徹夜だった。原則は並ぶんだけど、2時間おきくらいの点呼に居ればいいので、朝までほとんど列はできなかった。今じゃ、オンラインで買えるからなぁ。

その頃のベルリンフィルの演奏会で、登場するだけで拍手の鳴りやまない指揮者、というのが何人かいた。カール・ベーム。彼は法学博士号を持っているので、必ずベーム博士(Doktor Karl Böhm)と呼ばれていた。日本でも、博士号持っているんなら〇〇博士と呼んだらいいと思う。私が、師を必ずシュミッツ博士と書いているのは、尊敬の念をそれくらいは示したいという気持ちだ。ゲオルグ・ショルティ。彼も必ずサーの称号を付けられていた。(Sir Georg Solti)。意外なところで記憶してるのは、ロヴロ・フォン・マタチッチ。(Lovlo von Matacic)日本ではなじみだったけど。あの時のスメタナ「わが祖国」は、忘れられない。ドクター・ベームと並んで、19世紀生まれの指揮者だった。19世紀の音楽というのが、まだ現実に感じられる時代だった。「下宿のおばさんが、生ベートーヴェンを知っていた」なんてウィーンのヴァイオリン奏者にも会ったしな。

でね、あのカラヤンはどうだったかっていうと、拍手はすぐに鳴り止んだ。いやもう、出て来る時から帝王然としていて、客まで支配してたから。その拍手が、鳴り止まない事が一回だけあった。そう、あの事件だ。

きょうはここまでだ。