「音楽って何だ」カテゴリーアーカイブ

長い間・・・ごめんなさい。

暖かい励ましのお便りをいただいて、思わず泣いてしまったので、きょうからブログ再開するね。

 ちょっと休むつもりが何か月にもなってしまいました。読んでいてくださった方、ごめんなさい。

 なんかさ、大きいこと書きたいのよ。やれ、楽器がどうの、唇がどうの、息がどうのって、だんだん話が小さくなっていくの。それはそれで、まぁ、役立つ人にはとっても役立つはずなんだけど、「俺たち、このままでいいの?」って考えちゃうのよ。

 時代が変わっていく。この20年の変わりようも凄かったけど、この先10年はもっと凄いぞ。例えば、自動車ひとつとってみても、これ、10年以内に電気自動車で、自動運転になる。するとどうなるか。俺みたいなボケ老人が自動運転の車に乗って、大量に街に繰り出してくるぞ。俺はまだいい方だが、ちょいと上の団塊の世代の連中は最悪だからな。何しろ、座る席が人数より少なかった世代だ。自己中で、被害妄想で、左翼で、めげないからな。気を付けるんだよ、お嬢さん。

 で、まず、ガソリンスタンドが無くなるな。自動車の教習所が要らなくなる。タクシーの運転手さん失業する。かつて大量の金銭を俺から巻き上げた、白バイや交通係のお巡りさんも、さよならだ。駐車場も要らなくなるかもしれない、短時間なら勝手にその辺転がしてりゃいいし、長時間なら車だけ家に帰ってもらってもいいな。さらに、車の個人での所有も意味がなくなるかもしれない。信号機も必要ない。あ、電車の運転も自動化できるだろうな。車より簡単そうだな。ガソリンエンジンの技術者はどうするんだろう。宅配便だって車が勝手に持ってきて、玄関のボックスに入れてくよ。あぁ、これはもしかするとドローンで飛んでくるかもな。

 大量のデータが瞬時に処理できるようになれば、役所も、警察も要らなくなる。衛星から個々人を生体認証すれば、誰がどこで生まれてどういう成長をして、どこで何したか、みんな瞬時にわかってしまう。さすがにこれは10年とはいかないにしても、数十年の単位の話だ。100年はかからない。

 さて、その時、私たちは「音楽」とか「フルート演奏」なんかに価値を見いだせるの? 漠然と信じていてもいいんだが、いや、今の時代だって、音楽や私たちのフルートの価値が明快に理解されているとはとても思えない。皆、何考えてるんだろうって、WEBの世界を彷徨ってみるんだが・・・さてね。

 前に、ロボット、ペッパー君の前で演奏したことがあるのよ。こいつな、ふざけたことに、何やっても拍手すんだよ。じっと見ると顔赤くしてな。最初は可愛い!って思っていたんだが、だんだん恐ろしくなってきた。よくSFなんかで暴走するロボットみたいのが出て来るけど、あれ、違うね。

 ロボットなんか、多かれ少なかれ、自分あるいは自分の属する集団に有利なようにプログラミングするんだから、あくまでも自分たちには優しく振舞う。この瞬間の正義や、真理なんて誰にもわからないんだから、そんなもんを人工頭脳に持たせてもちっとも便利じゃない。あくまでも自分に都合のいいように振る舞うロボットがロボットの価値だ。だから、お母さんよりも、恋人よりもうんと優しくて、自分の思い通りになるロボットに依存する人間が出現する。人間関係が崩壊するね。「愛」なんて要らない、解らない人間が出来上がる。もしあり得る悲劇を考えるなら、こっちの方だと思う。シーザー・ミランの「愛犬レスキュー」ってテレビ番組を時々観るんだが、どんなひん曲がっちまった犬でも、その原因は必ず人間が作ってる。いつだって、始末の悪いのは人間の方だ。自分自身も、フルートも、音楽も、どんなに頑張っても、決して思い通りにならない。でもね、思い通りにならないってことは、ある意味しあわせだね。

 この百年余りの間、社会を引っ張っててきたのは科学技術だ。現代の我々は、科学技術こそが、時代を牽引するものと信じているが、いつの時代もそうであったわけではない。これから先、それを担うのは宗教かもしれないし、芸術かもしれない。やがて訪れるだろう新時代にも、人を愛することができるように、私たちは、準備を整えなければならない。だからいま、このままじゃ何もできないと認めることから始めようと思う。

きょうはここまでだ。

虎落笛

虎落笛(もがりぶえ)という季語がある。冬の烈風が生垣や竹の上を通り、笛のような音をたてることをいう。どうやら、電線などがふるえる音も、虎落笛というらしい。さて、太古の昔、人々は過酷な自然の中にあって、その支配に身を委ね、一瞬先のことさえ予測できなかった。災害は突然に襲いかかり、愛するものの命は理由もなく奪われた。ある夜、寒さに凍えていた時だろうか、悲しみに打ちひしがれていた時だろうか、虎落笛がきこえてくる。人々はそれを何と聴いただろう。自然の声、神の声、全てを支配するものの声か。警告であり、脅しであり、あるいは死者からの伝言であったかもしれない。そして、この声と言葉を使うことができるなら、支配者との折り合いをつけられるのではないだろうか、と考えたのだろう。虎落笛の正体を知ったとき、神との会話、支配者との対話が始まったのだ。枯れた葦の茎を切り、息を吹き込んでみる。ぴんと張った草木の弦をはじいてみる・・・。
そして、暖かく豊かな自然に恵まれ、愛する者を得、喜びと支配者への感謝を捧げるときにもまた、笛は奏でられることになったのだ。

フルートを吹くとき、たまにはそこに帰ってみるのも、きっとよい結果をもたらすだろう。

音楽がわからない?

時々、「音楽は良くわからない」という人に出会う。何とも受け答えに困ってしまうのだけれど、気持ちはわからなくもない。

本当のところ、「音楽がわかる」と言うことはどういうことなのだろうか。子供が言葉を初めて話す瞬間は、よくコップの水にたとえられる。コップに水がたまっていき、ある瞬間に溢れ出す、その時がしゃべり始める瞬間だという。音楽の理解もこれに似ていて、ある瞬間に、音楽の語る意味が理解できるようになるものだ。その地点を越えることができれば、音楽の語りかける意味が次々に解るようになる。「ある瞬間」を迎えない限りいつまでたっても「わかる」ことはない。順序だてて少しずつ理解に至るという道筋にはあまり期待しないほうが良い。このような理解を必要とするものは、音楽だけではない。語学だって、文法から順序立てて覚えようとしたら、いつまでたっても、まともにしゃべることができない。恋愛だってそうだ。少しずつ、順序立てて好きになるのではなく、ある瞬間に、相手を全部丸ごと好きになっていることに気付く。こういった事柄への理解は「ある瞬間」を迎えられるかどうかにかかっているのではないだろうか。だからいかにコップの水を溢れさせるかが重要だし、そのコップには「理屈」だけが溜まっていくわけではないことも、考えておかなければならない。
ベートーベンの交響曲第5番の冒頭を、「運命が扉を叩く音」・・・と思っても良いけれど、ここから理解に至るなどと思わないことだ。だって、その次は何だ?運命は小刻みに扉を叩きはじめるのか?音楽の語る意味を、その意味が私たちの心を動かす仕掛けを、言葉の世界で説明することはできない。ゲーテがベートーベンを聴いて「ああ、勇気がわいてくる」と言ったそうだ。さすがに文豪はすごい。短い言葉の中に、音楽の本質を言い当て、それをもって作品へ最大の賛辞を贈ってる。
いま、音楽がわからなくても、心配はいらない。大きなコップに水を溜めるのには、多くの時間がかかる。それだけのことだから。