ネアンデルタールの笛・・・(2)

「自然」という脅威に対して、人間以外の動物が取り得る態度は「服従」だ。服従とは理不尽なものだ。いっさいの不幸は突然、理由もなくやってくる。人間以外と書いたのは、人間の成功は、まさにこの一方的な服従と向き合ったことにある、と思うね。恐怖の出所を意識したんだ。それは、神であったり、創造主であったり、つまり見えない力の存在を意識した。そして、懸命にその存在との折り合いをつけることを求めた。いや、あるいはそれにとって代わろうとしたかもしれない。どうやって?

寒さに凍えたある夜、風は木々の間に絡んだ弦を震わせる。洞窟の入り口を通る風は唸り声をあげ、枯れた葦の茎が悲鳴を上げる。怖かっただろうね。そして、その正体を知った時、服従と向き合い、そこから逃れる術を思いつく。その音を出すことができれば、事態はきっと良い方向に向かうのだと。挑むのか、折り合うのか、願うのか、祈るのか。枯れた茎を咥えて恐る恐る音を出す。弦を張り、それを弾いてみる。あの恐怖の正体が、思いもかけず優しく響く。その一瞬に、いまこそ敵と和解したと・・・・・

見えないものに向かい合う、それこそ人間の人間たる所以だ。音楽の本質もじつはここにある。

話はすっ飛ぶけれど、「見えないもの」で思い出した。群れで生活している動物たちが、その種の保存のためでそうしているのであり、仲間意識や愛情の故なんてちょっとロマンチックすぎると書いた。人間の「愛」とは、もっと質の高いレヴェルの精神作用であって、動物たちの種の保存の本能との決定的な違いは、自己犠牲を伴うことだ。これはとても重要だ。人間の愛には常に「自己犠牲」が伴う。諸君! 周りを見渡してみ給え。そして、自分の愛する人を、自分を愛してくれる人を考えてみよう。そこに払われる自己犠牲の大きさを。きっと納得がいくはずだ。

自己犠牲を伴わない愛は、執着と同質だ。そして、愛の無い自己犠牲もまた存在しないと、言っておこう。

自己犠牲という概念は難しい。現代日本人にとって悲しい記憶にも結びつく。だから、ほとんど語られなくなった。この、自己犠牲が人間における愛の要件だという事を理解できない人達もいて、はなはだ厄介だ。中には、自己犠牲を、洗脳の結果であったり、強制されたものに過ぎないと考える人もいる。自己犠牲=忌まわしいものと考え、そこで思考は止まる。だから、命を捧げた兵士が持っていた愛を理解できない。自爆するテロリストとの違いすら判らないのだ。

命までとは言わないまでも、自分は何のために犠牲を払う覚悟があるのかと、自問自答することは大切だ。そして、今は亡き母をはじめとして、私のために犠牲を厭わなかった多くの人たちのことを想うと、もう居ても立ってもいられなくなるな。

音楽は祈り、愛は自己犠牲・・・(続く)

きょうはここまでだ。