ネアンデルタールの笛・・・(1)

ネアンデルタールの人骨が多量の花粉とともに発見された。その事実によって、専門の学者がどのような推論を組み立てて、「ネアンデルタール人は丁寧に埋葬された」と結論付けたかを私は知らない。これを正しいとするためには、ネアンデルタール人が花を美しいと思い、かつ死者を弔うという感情を持っていた事を証明しなければなるまい。

なぜそんな疑問を持つかというと、私には、審美観であったり、あるいは家族、仲間に対する愛情というものが、原初の人間に最初から備わった本質的な能力だという事が、無条件には信じられないからだ。言葉はおろか、声すら出せなかった人々だ。我々からすれば、人というより遥かに動物に近いだろう。今の私達から知恵というものをことごとく捨て去った時、残されるものは何なのだろうか。愛情という感情は残されるのか、美醜の感覚は残されるのか?

どうなんだろう? ほとんど野生生物と変わらなかったであろう生活をしていたその頃の人間に、現在の我々には本質的に備わっているだろうと考えられている審美観や愛情といったものが、果たして備わっていたのだろうか。私には、野生生物なんて、ほとんど恐怖の中で生きているとしか思えない。突然やってくる捕食者や自然の猛威から自分を守るためには、ただならぬ警戒心が必要なはずだ。そんな中で、花の美しさを認め、死者を悼み弔うだけの余裕がほんとうにあったのだろうか。その頃の人間は自然界の中で、そんな余裕を持てるほどの、強い地位を獲得していたのだろうか?

だから、ネアンデルタール人が笛を持っていたからといって、それで音楽を楽しんでいたなんて、とてもとても考えられないのだ。多くの野生動物は、自らを危険から守ろうとする時、まず何をするだろうか? 力関係が決まっているなら、戦いを挑むなんてロマンチックなことはしない。棘や甲羅や、毒を持っていればまだいいけど、そういうのって決まって弱っちい奴しか持ってない。走って逃げるか? そう、群れを成していれば、追いかけられて、誰かが捕まっても群れが全滅することは無い。群れなんてそういった種の保存の原理から成立するんで、仲間意識や愛情で出来上がったわけじゃないと思うぞ。あとは擬態だな。シマウマの縞ってのもあるし、あぁ、死んだふりなんてのもあるな。敵を騙すわけだ。そんな世界で、いくら人類だからといって、花を愛でて、愛し合ってなんて、ちょっと簡単すぎないか?

そして、その時代、人間の最大の敵はたぶん「自然」だ。たぶん「自然」という概念は持っていないだろうから、ある日突然やてくる、圧倒的な力を持つ見えない敵だ。この敵から、身を守ることが生きていく上での最大の課題のはずで、そこにはどのような試みがあったのだろうか。(続く)

きょうはここまでだ。