月別アーカイブ: 2017年6月

ネアンデルタールの笛・・・(2)

「自然」という脅威に対して、人間以外の動物が取り得る態度は「服従」だ。服従とは理不尽なものだ。いっさいの不幸は突然、理由もなくやってくる。人間以外と書いたのは、人間の成功は、まさにこの一方的な服従と向き合ったことにある、と思うね。恐怖の出所を意識したんだ。それは、神であったり、創造主であったり、つまり見えない力の存在を意識した。そして、懸命にその存在との折り合いをつけることを求めた。いや、あるいはそれにとって代わろうとしたかもしれない。どうやって?

寒さに凍えたある夜、風は木々の間に絡んだ弦を震わせる。洞窟の入り口を通る風は唸り声をあげ、枯れた葦の茎が悲鳴を上げる。怖かっただろうね。そして、その正体を知った時、服従と向き合い、そこから逃れる術を思いつく。その音を出すことができれば、事態はきっと良い方向に向かうのだと。挑むのか、折り合うのか、願うのか、祈るのか。枯れた茎を咥えて恐る恐る音を出す。弦を張り、それを弾いてみる。あの恐怖の正体が、思いもかけず優しく響く。その一瞬に、いまこそ敵と和解したと・・・・・

見えないものに向かい合う、それこそ人間の人間たる所以だ。音楽の本質もじつはここにある。

話はすっ飛ぶけれど、「見えないもの」で思い出した。群れで生活している動物たちが、その種の保存のためでそうしているのであり、仲間意識や愛情の故なんてちょっとロマンチックすぎると書いた。人間の「愛」とは、もっと質の高いレヴェルの精神作用であって、動物たちの種の保存の本能との決定的な違いは、自己犠牲を伴うことだ。これはとても重要だ。人間の愛には常に「自己犠牲」が伴う。諸君! 周りを見渡してみ給え。そして、自分の愛する人を、自分を愛してくれる人を考えてみよう。そこに払われる自己犠牲の大きさを。きっと納得がいくはずだ。

自己犠牲を伴わない愛は、執着と同質だ。そして、愛の無い自己犠牲もまた存在しないと、言っておこう。

自己犠牲という概念は難しい。現代日本人にとって悲しい記憶にも結びつく。だから、ほとんど語られなくなった。この、自己犠牲が人間における愛の要件だという事を理解できない人達もいて、はなはだ厄介だ。中には、自己犠牲を、洗脳の結果であったり、強制されたものに過ぎないと考える人もいる。自己犠牲=忌まわしいものと考え、そこで思考は止まる。だから、命を捧げた兵士が持っていた愛を理解できない。自爆するテロリストとの違いすら判らないのだ。

命までとは言わないまでも、自分は何のために犠牲を払う覚悟があるのかと、自問自答することは大切だ。そして、今は亡き母をはじめとして、私のために犠牲を厭わなかった多くの人たちのことを想うと、もう居ても立ってもいられなくなるな。

音楽は祈り、愛は自己犠牲・・・(続く)

きょうはここまでだ。

ネアンデルタールの笛・・・(1)

ネアンデルタールの人骨が多量の花粉とともに発見された。その事実によって、専門の学者がどのような推論を組み立てて、「ネアンデルタール人は丁寧に埋葬された」と結論付けたかを私は知らない。これを正しいとするためには、ネアンデルタール人が花を美しいと思い、かつ死者を弔うという感情を持っていた事を証明しなければなるまい。

なぜそんな疑問を持つかというと、私には、審美観であったり、あるいは家族、仲間に対する愛情というものが、原初の人間に最初から備わった本質的な能力だという事が、無条件には信じられないからだ。言葉はおろか、声すら出せなかった人々だ。我々からすれば、人というより遥かに動物に近いだろう。今の私達から知恵というものをことごとく捨て去った時、残されるものは何なのだろうか。愛情という感情は残されるのか、美醜の感覚は残されるのか?

どうなんだろう? ほとんど野生生物と変わらなかったであろう生活をしていたその頃の人間に、現在の我々には本質的に備わっているだろうと考えられている審美観や愛情といったものが、果たして備わっていたのだろうか。私には、野生生物なんて、ほとんど恐怖の中で生きているとしか思えない。突然やってくる捕食者や自然の猛威から自分を守るためには、ただならぬ警戒心が必要なはずだ。そんな中で、花の美しさを認め、死者を悼み弔うだけの余裕がほんとうにあったのだろうか。その頃の人間は自然界の中で、そんな余裕を持てるほどの、強い地位を獲得していたのだろうか?

だから、ネアンデルタール人が笛を持っていたからといって、それで音楽を楽しんでいたなんて、とてもとても考えられないのだ。多くの野生動物は、自らを危険から守ろうとする時、まず何をするだろうか? 力関係が決まっているなら、戦いを挑むなんてロマンチックなことはしない。棘や甲羅や、毒を持っていればまだいいけど、そういうのって決まって弱っちい奴しか持ってない。走って逃げるか? そう、群れを成していれば、追いかけられて、誰かが捕まっても群れが全滅することは無い。群れなんてそういった種の保存の原理から成立するんで、仲間意識や愛情で出来上がったわけじゃないと思うぞ。あとは擬態だな。シマウマの縞ってのもあるし、あぁ、死んだふりなんてのもあるな。敵を騙すわけだ。そんな世界で、いくら人類だからといって、花を愛でて、愛し合ってなんて、ちょっと簡単すぎないか?

そして、その時代、人間の最大の敵はたぶん「自然」だ。たぶん「自然」という概念は持っていないだろうから、ある日突然やてくる、圧倒的な力を持つ見えない敵だ。この敵から、身を守ることが生きていく上での最大の課題のはずで、そこにはどのような試みがあったのだろうか。(続く)

きょうはここまでだ。

キリスト教について知っておこう・・・(4)

長らく更新をしていなかったが、死んだわけじゃないぞ、きょうから再開する。
相も変わらず、暇だったんだが、音楽とキリスト教の関係について書いているうちに、ちょっと考えることがあってね。それで、ずっと考えていたわけ。

実は、こんなことを書こうとしていた。
---例えばミサ曲を演奏する場合、そのラテン語のテキスト訳を学ぶよりも、礼拝そのものの構成、そして礼拝の中での各曲の役割と意味を知っていた方がはるかに役立つ---これは確かだ。
しかし、それでいいんか?っていわれると、なんだかねぇ。
つまり、キリスト教の側から考えれば、ミサは信仰の中心に位置する儀式であって、信仰無しに、知識のみによって参加しようとしても意味は無いと主張できるだろうし、他方、音楽の側からすれば、音楽にとってのリアリティを追求するなら、本物の信仰も必要になるだろう。まあ、あくまでもミサ曲、あるいはこれに類するキリスト教音楽についての話だが。

この疑問は、「音楽は奏者の共感によって正しく解釈される」という前提に立っている。だから、何も教会音楽に限らず、他の音楽にも通じて、明らかにしておくべきことが、なんかモソモソとあるんじゃないかと。このことを考えると、いつも思い出すエピソードがある。チェロの友人の話だが。

「マタイ受難曲を弾くと、その時だけ、『ああ、キリスト教徒になってもいいかな』って思う。」

この感想には、深い意味があると思う。きっと、そう思う時の彼の演奏は素晴らしいものだろうし、その演奏はキリスト教的にも完全に正しいものだろう。他方、共感や解釈は、必ずしも演奏に先立っている必要はないという事も明らかにされている。これは、演奏家が、演奏の瞬間に、音楽に対して、聴衆に対して、どのような精神的立場を取り得るのかという問題に示唆を与えている。

話は飛ぶが、イスラム教の音楽って知ってるか?
答えは「無い」だ。
彼らの考え方では、「音楽は酒や麻薬のように人の心を酔わせて、理性的な働きを麻痺させる。」らしい。
これはこれで、音楽の本質を見ているようだし、はっきりしていてよろしい。しかし、そのせいで、音楽は発展しなかったんだな、あっちの方では。人間て何なんだろうねぇ。まじめ過ぎると、進歩しないんだわ。俺みたいな人間も社会には必要って事か・・・。

で、音楽が先か、教会が先か、どっちが上かなんて話をしても始まらんと思うんで、こんな話はどうだろう。
前にもどっかで書いたんだが、ネアンデルタール人の笛の話。

20年程前に、スロベニアの洞窟で、ネアンデルタール人のものとされる、指孔のある骨製の笛が見つかった。でもねぇ、ネアンデルタール人って、言葉をもっていなかった。話せなかったのよ、骨格的に声、出せなかったらしい。そこで、その笛で、何やってたの?って話だ。この話、実は最後に「落ち」があるんだが、この頃の話って、専門学者を含めて、想像自由の世界だからね。だって、骨と一緒に多くの花粉が発見された・・・だから、死者は丁寧に花を添えられて埋葬されていた。こんなんで、ちゃんとした学説だから。だから、我々も、フルート吹きとして、精一杯想像力を働かせてみようじゃないの。(続く)

きょうはここまでだ。