非円盤主義・・・(3)

自分の音楽について、あるいは次代の音楽家に対して、何らかの著作を残したフルトヴェングラーと、何も書き残さなかったカラヤン。それだけで、当然、どちらが音楽に貢献したかを問うことはできない。しかし、フルトヴェングラーの警告と不安に対して、それらを払拭し、杞憂に終わらせるだけの音楽を、そして何よりも次の世代につながる音楽をカラヤンが創り上げたかと問えば、私は「そうだ」と即答できない。

芸術というものが、時代の本質的に重大な表現として捉えられていたフルトヴェングラーの時代は、言い換えれば、芸術家の情念が、直感が、科学的思考と同等の価値を持っていた時代であった。芸術音楽はは、個々の曲を個々の演奏家によって、個々の聴衆に伝えられるべきものと彼は考えていた。それは科学的思考と対極をなすものであった。科学的思考とは、すべてに共通する要素から個々の存在を規定していく方法ともいえる。例えば、ベートーヴェンはウィーンの古典作曲家であり、その様式にのっとって演奏されるべきであるという考え方だ。フルトヴェングラーは、そんなことでは作品の本質にはたどりつけない、現代の人間として、作品と直接に対決せよと迫っている。そして、私はまだそれができるのだと。なぜなら、ヨーロッパの音楽界が百花繚乱の時代に、私の始まりは、あるからだと。

「止め度もなく、レコードやラジオを聴くことからはびこることになったあのはき違え歪められた音感、精神を喪失した、ただ上辺だけ繕う単純な、きれいさ・・・そこでは音楽とは全然別のものが必要になってくるのでしょうが・・・」(フルトヴェングラー著「すべて偉大なものは単純である」1954、芳賀壇訳、新潮社)

いまさら、私なんぞがマエストロに絡んでも何の足しにもならないだろう。フルトヴェングラーがとっくの昔に予言していたのだから。「我々の時代の帰結、狂信的、理論的な時代、科学が宗教となった時代の結末」(同上)をとらえられなければ、芸術としての音楽など、忽ち取り残されてしまうだろうと。

いま、気付くのだが、フルトヴェングラーの警告に耳を貸さずに、マエストロのカリスマとともに、我々はあの百花繚乱の時代の果実を、ものの見事に食い尽くしてしまったのではないだろうか。飽くなき欲と傲慢さのために。眼前に広がる音楽の荒涼たる風景の前で私たちは立ち尽している。

きょうはここまでだ。

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