ひとやすみ(2) PCがぶっ飛びましてね

突如として、PCがぶっ飛びましてね。ブログ書いていて、何回もSAVEする前にShutDownしてしまい、なんか焦げ臭いと思っていたら、うんともすんとも言わなくなってしまった。開腹して、原因はマザーボードか電源ユニットと推理。しかしなぁ、この先、どうやって調べるんだ? と思いつつもネットオークションでマザーボードの値段調べ。ふと気が付いて、ベランダに捨て置かれていた古いPCを回収。電源を取り出してはみたものの、ピン数が合わないじゃん。んでも、強引に「いいか入るところに入れば」という「死なばもろとも」状態で、えいやっ! おぉ! マザーボードのLED点くじゃん! んで、今度はAMAZONで電源探し。昨日の夜発注して、今日の昼には届いた。便利になったもんだ。昔はこんなことがあると、秋葉原のジャンク屋さん廻ったものだけど、いや、もうそんな気力無いわ。昔の、秋葉原のジャンク屋さん面白かったな。謎の人物がたくさんいた。親父の不機嫌な顔、見てるだけでも楽しかったもの。「これ、動くの?」なんて聞いたら、こっぴどく叱られたな。でも、イチかパチかで買ったもの、みんなちゃんと動いた。500メガのハードディスクがまだ万の値段の頃、フレキシブルケーブルが切断された、廃棄用のハードディスクを500円くらいで買ってきて、虫眼鏡を覗きながら、細っーい線を繋ぎ合わせて復活させるの流行ったよなぁ。あぁ、ネットもアナログ回線で、テレホーダイってのがあって、夜11時になると・・・・・止めとこ。

演歌は嫌いじゃないの。演歌歌手、音程良いし、みんな歌上手い。歌い回しが、好みじゃないが。前回、アカデミズムについて少し書いた。アカデミズムの対立概念は、ジャーナリズムなのだから、某局のDirectorが「演歌も聞け」と言ったのも、実は、道理に合っている。たったそれだけのことなら、あまり執念深く思い出すのも小者感が漂うね。だがしかし、「アカデミズムやエリート主義が、まるで悪のように言われて久しい。下へ降りることばかりが善のように扱われる。」と書いちゃうと、やはり、もうひとこと言いたくなるな。

ジャーナリズムって、いつも正義の味方を自称して、自信たっぷりだ。でも、それって何でもかんでも「きれいごと」に収めてきただけなんじゃないか、と私は思う。物事は一切きれいごとに収められて、一件落着だ。でもなぁ、実は、このジャーナリズムが(最近では自分たちを「メディア」と呼んでいるようだが)負け始めてるんじゃないか? Brexitや、アメリカの大統領選挙で見事に恥をかいたもの。ポピュリズムだなんて言ってるけど、何を言ってんだかね。自分たちが、元祖ポピュリズムだからねぇ。インターネットの普及で、みんな本音を言うようになったんだと思うね。ジャーナリズムのいう「正義」が、単なるきれいごとで、個人の感情の奥底に目をやると、心の底まできれいごとで生きられる人は、そうは多くないんだろうね。俺? 無理、無理。だから、既存のジャーナリズムが自分たちを「メディア」って呼ぶの、ちょっとおかしいと思うね。「一緒にしないでくれ!」って思っている人たちも多いと思うよ。音楽と同じように、時代も一方の極から反対の極への振り子のように動く。決して同じ所へは戻らないのが振り子と違うところだが。今、振り子が逆方向へ向かう力の影響を、受け始めているのかもしれない。だから、「世の中を発展させていく責任は、いったい誰が持っているのか。いや、その責任を自覚しているのは、いったい誰なのか。」と、自分に問うてみたのさ。

これ、何回も書き直した。PCの故障のせいだけじゃない。だってどうしても文章が、1960~1970年代風の過激なスタイルになっちまうんだ。苦労した。

今日はここまでだ。