フルートの吹き方 楽譜通り?(1)

 最も簡単に、曲を吹く方法は、楽譜通りに吹くことである。はい、おしまい。
え?機嫌悪いのかって?いや、普通だ。この件について書くと、際限ないから憂鬱なんだ。横槍が入るのが分かっているからな。「まず、楽譜通りに演奏するのが基本でしょ、基本無くして発展無し」「勉強の過程では、楽譜通りに吹くのがまず大事」「楽譜通りに吹ければ後は個人の自由ですから、個々の感性に従って」「じゃぁ、好きにやっていいんですかぁ」「作曲家の意図に沿わなければ」・・・

 楽譜って何なんだ?そこに、「音楽」が詰まってるのか?ねえよ。設計図?いや、メモ位だろ。黒いインクだけで表現される二次元の存在が「楽譜」だ。演奏するという行為は、二次元の存在を、立体化することだ。現実化、血肉化と言ってもいい。自分が創り上げたい、あるいは造り上げなければならない音楽の中に、楽譜というメモの比率はどのくらいか考えてみるといい。音楽がデカければデカいほどメモの比率は低くなるよな。誰よりも美しい音で、的確なテクニックで、楽譜通りに演奏し、ちょこっと思い入れの表情なんか付けたりすれば、音楽が勝手にデカくなる・・・わけはない。

 作曲家は個々の楽器に対してそんなに詳しくはないし、演奏家の音楽性にまったく期待していない作曲家も稀だ。手書きの譜面見てみろよ。スラーなんか、ぴゅぅっといい加減に引いたのが多いぞ。フルート吹きの息の長さなんて、J.S.バッハなんか、知ったこっちゃぁないと思ってるぞ。息取りの記号だって、作曲家が書いたのかどうかきわめて怪しいし、書いてない所で息を取ったら間違いか?スタカートの点が付いてない音符を、スタカートで吹いたらいけないのか?それに、スタカートだって、いろんな種類があるしな。23連符は全部23分の1の長さじゃないといけないのか?ドップラーはフルートの名手だったが、絶対にあの楽譜通りには吹いてない。吹いた音楽を楽譜に直したら、あのようにしか書けなかったというのが本当のところだろうね。つい最近までは、作曲家は手書きで譜面を作った。それを書き写したり、版に起こす人がいて、印刷譜が出来上がる。その過程で間違いは起こらないのか?どこの誰かも示さずに、勝手に手を加えられた譜面は山のようにあるぞ。クレシェンドやディミヌエンドが付いたヘンデルのソナタの譜面があるぞ。皆の大好きなケーラーのエチュード、版を3つ持ってるが、皆違うぞ。

 「楽譜通りに吹く」という考えこそ、実はいい加減で無責任なことじゃないか?ま、しかし、これだけは言っておこうか。ただの不注意で楽譜通りにできなかったのを、「私の考えでは・・・」とか言うなよ。それ、後出しじゃんけんだからな。

 ものすごく、感覚的で根拠ない考えだが、演奏される音楽の中で、楽譜によって決められる部分は、まあ大甘で50%だな。20%くらいが適当だと思うよ。それに、この比率は曲が書かれた時代が、古くなればなるほど下がっていくはずなんだ。単に、時代が古いとか、記譜法の問題ではなく、こういうことだ。私たちはバッハの後のモーツァルトを知っているし、ベートーヴェンやブラームスを知り、近代音楽、現代音楽、ジャズ、ポップス、演歌まで知っている、そう、演奏する方も、聴く方もだ。まさか、知らない振りも出来まい。構築されるべき音楽の可能性は遥かに大きくなっているのだな。

きょうはここまでだ。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です