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フルートの吹き方 良い音を出すには・・・(7)

フルートに関するどんなサイトを見ても、そのほとんどが、「どう吹くのか」という方法論ばかりで、正直がっかりする事が多い。あまりに、即物的ではないか!多くのフルート愛好家、音楽愛好家、職業人としての音楽家たちをも含めて、なぜ、「何を吹くのか」について、もっと多くの興味を持ち、持論を展開していないのか、不思議であり、残念でもある。それともそんなことは、もう解りきったことなのだろうか?とてもそのようには見えない。偉大な音楽の歴史、音楽のもつ力の頂に少しでも近付こうとするなら、まして、そこに私たちの命をもってかかわろうとするなら、「どう吹くか」なんて、麓をうろついている見物人の、無責任な戯言にしか聞こえないだろう。未だ、装備は充分でないかもしれないが、いまその山道に一歩を踏み出さないで、いったいいつになったら登り始めるのか。

奏法など、語られた瞬間に行く先は見えてしまっている。そこに行きつけば、その先は無い。私たちは、フルートで何を吹こうとしているのか、フルートで何を語ろうとしているのか?
その思索と試行の中にただ一歩、踏み出せば、本当は、奏法なんぞ無限に湧いてくるに違いないのだ。奏法とは、何を語るためにという目的と意思とによって導かれてこそ、初めて意味を成す。語り得なかったことが、新たな方法によって語られるようになることこそが、私たちの進歩であり、喜びであり、価値であるからだ。

このブログも、タイトルこそ「フルートの吹き方」にしたけれど、それはお察しの通りの事情からだ。だから、そのスタートもあえて「息のエネルギーを最大の効率で音に変える」という、おそらくだれも抵抗できないであろう、即物的な命題に置いた。しかし、その実践を紹介する過程では、私たちの命の事や、音楽の事や、精神のことに少なからず触れざるを得なかった。そして、導き得た結論は「何もしない(で吹く)」だ。でも、考えてほしい、「何もしない」事によって、私たちはどれだけ、正直に、自由になれるかを。その時こそ、この一本のフルートで「何を吹くのか」、に想いを巡らすことができるのではないか?

もしかすると、私ほどレッスンで奏法にこだわる人間は居ないのかもしれないと思う。しかし、それは一刻も早く「吹く」という呪縛から自由になってほしいからであり、自由な貴方の命の声を誰よりも早く、誰よりも熱意をもって聴きたがっているからだと、言い訳をしておく。

次回は、持ち方について考えてみようと思う。

きょうはここまでだ。

 

虎落笛

虎落笛(もがりぶえ)という季語がある。冬の烈風が生垣や竹の上を通り、笛のような音をたてることをいう。どうやら、電線などがふるえる音も、虎落笛というらしい。さて、太古の昔、人々は過酷な自然の中にあって、その支配に身を委ね、一瞬先のことさえ予測できなかった。災害は突然に襲いかかり、愛するものの命は理由もなく奪われた。ある夜、寒さに凍えていた時だろうか、悲しみに打ちひしがれていた時だろうか、虎落笛がきこえてくる。人々はそれを何と聴いただろう。自然の声、神の声、全てを支配するものの声か。警告であり、脅しであり、あるいは死者からの伝言であったかもしれない。そして、この声と言葉を使うことができるなら、支配者との折り合いをつけられるのではないだろうか、と考えたのだろう。虎落笛の正体を知ったとき、神との会話、支配者との対話が始まったのだ。枯れた葦の茎を切り、息を吹き込んでみる。ぴんと張った草木の弦をはじいてみる・・・。
そして、暖かく豊かな自然に恵まれ、愛する者を得、喜びと支配者への感謝を捧げるときにもまた、笛は奏でられることになったのだ。

フルートを吹くとき、たまにはそこに帰ってみるのも、きっとよい結果をもたらすだろう。

音楽がわからない?

時々、「音楽は良くわからない」という人に出会う。何とも受け答えに困ってしまうのだけれど、気持ちはわからなくもない。

本当のところ、「音楽がわかる」と言うことはどういうことなのだろうか。子供が言葉を初めて話す瞬間は、よくコップの水にたとえられる。コップに水がたまっていき、ある瞬間に溢れ出す、その時がしゃべり始める瞬間だという。音楽の理解もこれに似ていて、ある瞬間に、音楽の語る意味が理解できるようになるものだ。その地点を越えることができれば、音楽の語りかける意味が次々に解るようになる。「ある瞬間」を迎えない限りいつまでたっても「わかる」ことはない。順序だてて少しずつ理解に至るという道筋にはあまり期待しないほうが良い。このような理解を必要とするものは、音楽だけではない。語学だって、文法から順序立てて覚えようとしたら、いつまでたっても、まともにしゃべることができない。恋愛だってそうだ。少しずつ、順序立てて好きになるのではなく、ある瞬間に、相手を全部丸ごと好きになっていることに気付く。こういった事柄への理解は「ある瞬間」を迎えられるかどうかにかかっているのではないだろうか。だからいかにコップの水を溢れさせるかが重要だし、そのコップには「理屈」だけが溜まっていくわけではないことも、考えておかなければならない。
ベートーベンの交響曲第5番の冒頭を、「運命が扉を叩く音」・・・と思っても良いけれど、ここから理解に至るなどと思わないことだ。だって、その次は何だ?運命は小刻みに扉を叩きはじめるのか?音楽の語る意味を、その意味が私たちの心を動かす仕掛けを、言葉の世界で説明することはできない。ゲーテがベートーベンを聴いて「ああ、勇気がわいてくる」と言ったそうだ。さすがに文豪はすごい。短い言葉の中に、音楽の本質を言い当て、それをもって作品へ最大の賛辞を贈ってる。
いま、音楽がわからなくても、心配はいらない。大きなコップに水を溜めるのには、多くの時間がかかる。それだけのことだから。